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Concepts

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プロフィール
2012

アーティスト。都市やアートの空間、人(身体と活動)、時間の流れを素材に、彫刻的なパフォーマンス、メディアアートの作品をつくる。リアルとフィクションを様々なレベルで混ぜ合わせ、ユーモアによってそれらをつなぐ、特有の手法を持つ。孤立した作品ではマージナルなセンスを、参加者が関わる作品ではそこに起きる共犯的な感覚を想起させる。武蔵野美術大学油絵学科卒業。博物館や画廊に勤務した後、フリーランス。国内では、2005年にドイツのアーティストを招待したイベント「出会うための芸術(Art of Begegnung)」と「横浜港湾行為借景計画(Site-specific "aktion" in Yokohama)」の企画、海外では2007年に伝統あるグラスゴーの「National Review of Live Art」に招待されている。



パフォーマンスアートについて
2006〜2012

 私は、私のパフォーマンスアート作品を「行為と時間と関係性の彫刻」と定義する。私は、「人間」のあり方のひとつの例を創る。人間は矛盾した生き物である。にもかかわらず、人は何かを提出するとき、考えを矛盾のないようにひとつにまとめ、2つめ、3つめの感覚を切り捨てる。私のパフォーマンスの間、観客や何か素材を使う。それらは、私によってコントロールできないものだが、そこで起こったプロセスと結果も私の作品に含まれる。なぜなら、私は、そういう「複数の選択肢が平行する感覚」がパフォーマンスの中でどう進行し、どう扱われ、理解されるのかという経験を、観客に提出し、分け合いたいのである。

 つまりありとあらゆる社会生活、個人の場所で発生している「優先順位」という、あたかも「絶対」な答えがあるかのように「期待」されている選択方法があるが、私はそれに、時に半ば暴力的に問いを挟み込む。そして、しかも、自分で選べない選択の方法へと変更を経験することで、一人では選ばない選択肢を経験/提案できると思う。勿論、それが正しいかどうかは、全く別の判断だ。



地政学について
2006〜2012


 私は、私の芸術作品を通して、一種の文化的問いも見せたい。特に、2006年から、わたしは特定の地域における、地理的、政治的、歴史的、社会的、経済的な特徴からくる特徴や葛藤に特に関心を持つようになった。それ以降の作品/活動はどれも、その考えが反映している。拳を握って戦うのではなくて、何か、21世紀にふさわしい、しなやかで、力強い思想を求めている。そのために、できるだけ、様々な所で出会う人々と関わる努力をし、意見や考えを聞き、気持ちを感じようとし、しぐさや態度をみつめて、可能性のある仮説を立てる。今の所、わかっていることは、シリアスになるよりは、ユーモアを持つことがきっと正しいということ。複数のアイデンティティやその遺産の重みに潰れてしまうのではなくて、むしろ、楽しむこと。


痛みについて
2003

 現代医学では、身体の痛みの程度や種類について、科学的に測り、表現することはできないそうだ。また、学者の間では、痛みそのものが、その患部(抹消神経)にあるのか、実は脳の中で反応している出来事のかさえ、未だに論議が分かれているらしい。また一方で、精神的な問題が身体に痛みをもたらすことは、誰もが多かれ少かれ、経験で知っている。しかし、そのメカニズムについて客観的に説明することはやはりむずかしい。
それが、他人の痛みの場合は、尚更である。身近な人の苦しみが、私たちの心を抉る時、それは愛からだろうか、それとも想像力からだろうか? では、一方遠い関係の人の苦しみについての理解は、ヒューマニズムのissueなのか?人はこうして、そのつど感覚に名前をつけていくこと(解釈を加える)で感覚の本質をむしろわかりにくくしている。しかし、ものごとを意識する、表象するということは結局はそういうことなのだろう。
 アートで身体をテーマにしていくということは、この痛みへの問が象徴すると私は考える。本質に迫れば迫るほど、解釈の幅の広さと、表現力の可能性を発見するということは、芸術にとっては興味深いことなのだ。しかしそれは科学には受け入れがたいことだろう。


時間の底板プロジェクト
(環境のためのプロジェクトのためのテキスト)
2004


出来事や物事に複数の視線を投げかけ、複数の文脈を得ることに興味がある。たとえば、「時間の底板」というプロジェクト。土地とその記憶がテーマである。土地は身体のメタファーでもある。身体は 有限であり、そのために選べることは限定される。その限定を人々は好まない。ゆえに人は想像力の羽根と記憶の物語を切実に必要とする。そうして確かに選択肢は増えるだろう。しかし、出来事の理解の仕方が、結果を変える。理解とはほとんどすべてが、誤解で成り立っている。偶然の選択と実はほとんど変わりがない。危険は増える一方である。だから人はいらだって...............コインを手の平で転がすのを止めることができない。

環境とは関係のことである。アートとは、実はテーマではなく、いかなるプロセスを踏むかということである。




名前のない庭
(作品Gardenのためのテキスト)
2003

私はばかなので、何でもかんでも忘れてしまいます。ただ立っているだけ。
ただ、耳をすましているだけ。

私は空を見るのがとても好きです。
そしてさまざまな音、世界から聞こえてくるいろいろな音を聞きます。
それらのほとんどには名前がありません。
日本から見る空も、アフリカから見る空も同じ空。
名前がない。

りんごが落ちる時、地面に音がします。
単なるりんごの落ちる音だけれど、落ちるたびに違った音がします。
でも、誰もそれらにわざわざ名前をつけません。人間の社会に必要のないことですから。

「私のにおいを知っていますか? 私が誰かなんて忘れてください。」

私は、世界からの音を聞くために動いているだけです。
でもそれは簡単なことではありません、拷問のよう。
なぜなら、音は世界からしているのではなく、本当は私の音だから。
私が何かしなければ音は聞こえません。こだまのように響いて。
それはつまり……..世界は決して、………..?
でもそれらの音はすばらしい。愛すべきというべき。

「私のにおいを嗅いでください。音など、無視して。」

ある日、私は、それまで聞いたことのない音を聞きました。
ボコッ!
私の足のそばに、死んだ蝉が落ちていました。
私は、蝉に重さがあるなんて、それまで考えたこともありませんでした。
蝉のことは知っています。見たこともあるし、本からの知識もあります。
彼等が木の上で、鳴いているのも聞いたことがあります。でも、
その死んでいる蝉については、初めてでした。
そして私は彼を手にとり、彼がとても軽いことを知りました。
それから私は、もっと彼を知りたくなり、
注意深く、彼のにおいを嗅ぎました。