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< 採録 >

パフォーマンスアーティストへのインタビュウ
Interviews with Artists vol.3

Artist : 池田 一氏
Ikeda Ichi


「淡水河から7つの海へ」台北にて1997 

インタビュウした日/2004130日(金)19:30より

Interviewer:
山岡佐紀子

観客からの発言:
塩原康則(アーティスト)


参考に池田一氏のweb site も御訪問ください。


池田:日本でパフォーマンスという言葉が頻繁に使われ始めたのは、意外と遅いんではないかと思います。実際は80年代に入ってからではないかという気がします。60年代の終わり頃は、ハプニングと言う言葉が中心でしたし、あるいはインターメディア的な、いろんなメディアを合わせてやろうという企画があったりしたと思うんですけど、パフォーマンスという言葉には至ってはなかったと思います。

さて、今日、私自身のパフォーマンスを紹介するために、お見せするスライドも、日本でのパフォーマンス表現の夜明けと言っていい、80年代くらいからのものです。ただ、一連のパフォーマンスを生むようになった背景が重要なので、それ以前に私の行っていた活動を、まずはお話しすることにします。
( 『FLASH・FLOAT・FLOW』というタイトルのあるポスターを出す。3人のアーティストによる野外での作品の紹介ポスター)これは1969年に作ったポスターで、『F次元のプレイ F-dimensional Play』と呼んでいます。これがなぜパフォーマンスのきっかけかと言いますとですね。ちょうど60年代の終わり頃の日本の文化状況はアンダーグランド全盛期でして、いろんな実験的な前衛劇団などがありましたが、それらはいわゆるカウンターカルチャーなんですね、既成のものに対して戦う、ぶつかる。それらの活動の大半は、血なまぐさいというか、赤っぽい革命幻想っていうのかな、そんなイメージとどうもつながっていたんですね。私自身は、そういう血なまぐさい幻想には批判的で、普段の生活と繋がっているような、境界が溶けて行くような表現志向が好きでした。それで、この『F次元のプレイ』というのは、全部完結した形がないんですよ。浮いている、流れている、爆発しているという。FLASHは別の作家の作品ですが、海の上で爆発している作品。私の作品は(右写真)、『水平線なんてクソくらえ! Non-horizontal Line』というタイトルで、200mの風船を海水浴場で浮かべて、ボートで海面を引き回して・・。与えられた線引きと闘うより、自分たちで境界線を引いてしまえと。要するに、カウンターカルチャーみたいにアンチであるだけではだめなんではないか、既成の制度とか押し付けられたフレームといったものから逸脱した、つまり決まりきった形態に集約されていかない、常に新しい方向へと流動している・・・そんな作品ばかりを集めた『FLOW WORK』とその宣言は、高く評価されました。私の身体の中にある、身体的な枠組みを規定されるとか、境界線を引かれるといったことから、本能的にずれてしまう、そういう身体の傾きが、こんな場所から出来てきたんではないかと思っています。

マルチ・プレイ Multi-Play
池田:
それからこの頃、『マルチ・プレイ Multi Play』という、アンダーグランド全盛な中では、非常にユニークな演劇活動もやっていましたね。発想の発端というのは、芝居の中で退場した役者が映像で出てくる、映像から消えた人が舞台に登場してくるという、映像と演劇をミックスした芝居をやろうではないかということだったんです。だんだん話を煮詰めてくると、実際は、舞台の裏が飛び出して見えているようなものですから、それでは裏側の空間も作っちゃえということで、結局同時に2つの劇場を作ることになったんです。お客さんは誘導されて入場してくるので、2つの劇場があることが始めはわかんない。ところが、しばらくすると役者の振りと違う台詞が聞こえてくるんです。そのためには、台詞を2段、3段に分けて、2つの劇場用の台本を書きました。そのうち、突然バーンと真ん中の仕切りが開いて、向こう側にも観客がいるのに、びっくり。観客同志がにらめっこしてるみたいなことになる、なんせ目の前の空間が2倍に広がったんですから。そういう増殖する、新陳代謝する空間を、どんどん3つ、4つと増やして行けば、そうすれば、ある種の人間主導の都市空間のイメージが広がるんではないかと、考えたのです。当時としては、いろんな音楽とか衣装とか美術とかを統合したトータルシアター的な傾向が流行っていたのですが、私はそういう「トータル」という統合的で管理的な言葉に抵抗があって、嫌いでしたから、私自身の劇場の考え方は「ユニットシアター」、だと。ユニットがぶつかったり結合したりしながら劇的空間を広げて行こうと、その活動を『マルチ・プレイ』と呼んで、新宿を中心に展開していました。マルチ・プレイの第3回公演『仮象・殺人ゲーム』では、60〜70人の役者や音楽家を入れてやりましたが、その時は場が沸騰しちゃって、最後まで筋書き通りいかないんですよ、芝居が終わりまでいかないんです、場が沸騰して・・・
山岡:場が沸騰するって、お客さんが沸騰するんですか?
池田:お客さんがマイクを持って、勝手に話を始めちゃうんです。『Next! Who are killed?』といういささか物騒なタイトルで、会場のあちこちで音楽の演奏が煽っていたということもあったせいかな・・・。鈴木ヒロミツがやっていたモップスと、小杉武久さんらのタージ・マハール旅行団と、それに早稲田大学のバンドもいて・・・。観客の一人がマイクを持ってわーわー話しはじめるかと思うと、制作担当のスタッフまで喋りはじめる。それで、私が「さあ、みんな町へ行こう!」と叫ぶと、観客も連れ立って、新宿の町にパレードに出発ということになったわけです。
山岡:池田さんはおいくつだったんですか。
池田:1970年。33年も前ですか・・・すごい前だね。20代後半かな。週刊誌には、赤軍派よりやんちゃな池田って書かれましてね。
山岡:場所はどこですか。
池田:新宿の四谷公会堂ってところでした。そのころはヒッピー文化が盛んで、どこまで広がっていくのかわからない開かれた空間に、憧れがあった時代だと思います。でも、実際は退屈しているわけじゃないですか。ファッションとか格好だけでなくてね、実際に解放感を体験する空間がここにあったわけです。4回公演やって、3回は最後まで行かなかったですね。
山岡:その最後までいかないということは予想していたんですか。
池田:いいえ。役者はおびえていました。台本どおり狂いなく進むことを願っているわけですから。でも、わたしは、良かったですね、場が沸騰した方が。そういう時代だったのかな。
塩原(観客の1人として):私も多少記憶がありますが、夕方は、当時の新宿や池袋の、一般のサラリーマンの人もまっすぐ家に帰らないんです。何かが起こるかなとか、アジテーションがあれば集まって、そこからムーブメントが起きる。今でしたら、同僚と飲んで帰るだけでしょうが、そればかりでなくて、帰る前に、どこかのアジテーションに参加しようとしてなかなか帰らないんです。そういう時代でしたね。
池田:そういうことが、これから紹介するパフォーマンスの根底にはあるんですが、その前に、唯一私が後悔していることに、ちょっと触れておきたい。それは、たまたま紀伊国屋ホールで公演して、その勢いで、池袋にあった「シアターグリーン」で芝居をしたことなんですが、なんとなくこれでもって、演劇界に通用するんではなかろうかという欲が出たんですね・・・今までは、自分の尺度で好きなことしかしてなかったし、逆に業界から外れることで、自分の表現のポジションを確認していたのに・・・。私が好むのは、日溜まりの演劇とか、生活と地続きな白昼の表現なんですよ。暗がりの中の表現は性に合わない。日溜まりで、全てがとろけるような空間、そういう強いイメージが常に頭にあって、いまだに。それが制度としての境界とか差別社会が溶解していくようなことにつながるんではないかと。卵が突如割れて新しい生命が誕生する瞬間を想定して「卵生の演劇」とか、いろんな形で提案してきたんですが・・・。まあ、暗がりの文化に欲が出たあの時は、唯一自分らしくない動きでした。

PASSから、演出家廃業宣言

池田:
今思うと、私もカウンターカルチャーの一部に組み込まれ、結局は制度が固まって行くのに作用しただけであって、私自身がやらんとしたことから逆に離れていくような状況ではなかったのではないか、と。たとえば、72人乗りの大型バスを一台買って、東海道バスシアターというのもやったんですよ。乗降り自由な、動く共同体というイメージが移動する感じで、40何日間かかけて東海道を旅しました。あるいは、東京湾にある浮島という無人島を借りて、修羅祭というフェスティバルを開いたり・・・。でも、保守的で制度的な小劇場運動の方が強くなっていく中で、そういう開放的な発想や試みが弾き飛ばされていっちゃう。制度から外れる分、次第に生きてゆく大前提の部分があやうくなっていく、活動を継続するお金が伴わなくなる、頭が伴わないんではないんです。演劇とかダンスは興業的な成功が前提ですから、興業形態にしっかりのめりこめば・・・、それで、一時、その種の成功を思って、演劇界の方に加担しようかと思ったのが、唯一自分らしくないと後悔したわけです。でも、まだ演劇表現にこだわっていたところがあって、これならやれるかなと思ったのが、「イク族」というテーマです。スーダンとケニアの国境のところに、家族同志が憎しみ騙しあうほど、饑餓状態が進んだ、終末的な部族がいるんですね。その「イク族」探訪の本をもとに、イギリスで演劇化されたんですが、日本という国の持っている体質の方が、より終末民族に近いのではないかとわたしは思ったんです。
山岡:日本の持っている社会の在り方に問いかけるという方向になったんですね。
池田:カウンターカルチャーではいけないと思い、そうするとオルタナティブということになりますが、そのポジションを見つけるのはなかなか難しいんです。制度的な文化の枠組みの中で、美術や演劇の中で見い出すのは、無理だと、外れなきゃだめだ、と。だけど、外れるための、表現の領域は、ないんですよ、まだ。で、ぎりぎり演劇の中で、「イク族」という芝居ができるんではないかと思って、まったく台本なしで始めました。飢餓民族であることを、疑似体験するわけですから、役者同志がすさまじくなっていくんです・・・。
山岡:饑餓状態になるんですか?
池田:実際の饑餓状態にはならないけども・・・関係が飢餓状態と言うか・・
山岡:演技ですか。
池田:そう、やはり演技。そこが限界だったんでしょうね。台本がないから、当然行為が生っぽくなっていく。でも、日本人は飽食であるところで、饑餓状態になっていくところに無理があったのかねえ・・・.公演に向けて、ポスターも作ったんですけど、上演1週間前に、ご破算に・・・。私には、上演中止という事態ははじめてのことでした。
山岡:1976年ですね。
池田:それで、演劇からだんだん自分が遠のいていって、美術の方から、「PASS」という宣言を発表したんですよ。順番が回って来ても、おれはパスするよっていう・・・つまりトランプでパスしたような領域からの表現を徹底したいという宣言です。そこに、表現者のポジションをとったと言うか・・・。それでも、役者達から、演劇に復帰してほしいと誘いが強烈で、じゃあ、公演をやるとその興業形態でややこしいところに行ってしまうので、ワークショップならと活動を再開したんです。でも稽古だけでは役者たちが満足しないので、2、3度公演を打ったですが、その中で、ついに演劇はこれでお終いなのだと。なにが駄目かと言うと、何処まで行っても何かがいかがわしい、何か私自身の持っているものと根底から違う。興業的な周辺にからむものが多すぎて、そのための演出、操作、はっきり言えばウケを狙うとかですね、そういう要素が出て来てしまう。そのような表現の志向を、私の身体の傾きがどうしても受けつけない、それで最後についに、演出家廃業宣言を出しました。

路傍の表現、そして最初の「水ピアノ」
池田:
その宣言を契機に、がらっと何かが一変して、演出とか、操作とか、振りとか、徹底的に嫌いになって、そう言うことは一切止めることにしました。その状態のことをいうと、これが私のパフォーマンスの考え方の、大切な原点なんですが・・・。ぼうぼうと砂ぼこりが吹き荒れている路傍に投げ出された感じがしたんですよ。私が、自分が何者か、自分のアイデンティティを常に主張してないと、砂ぼこりがばあ〜と降り掛かってきて、私はただのゴミ屑同然のものになってしまう。演題がないから、楽譜がないから、楽器がないからといった猶予は一切ない。一息休みを入れたら、砂塵がどうっときて、ゴミ同然、がらくたになってしまう。そんなギリギリの瞬間で、自分が信じられるもの、いまやれるものはなんだろう。そこでやったのが、ボイスパフォーマンスなんです。
山岡:廃業宣言されたのが、81年。疑問を持ってから3、4年経っているんですね。
池田:ええ、その間、『G-day PLAN』というパフォーマンス・ワークショップはずっとやっていました。新宿アートシアターという小劇場を借りて、毎週2日とか3日の割り合いで。
 『水ピアノ』というパフォーマンスを発表したのもこの頃で、これが私のパフォーマンスの起点と言っていいものでして・・・。それはどういうことかといいますと、演出家、劇作家を止めようと思ってた頃に、役者たちに水槽を与えるから、そこで自由に一時間何か演奏してくれ、と言ったんです。そうとしか、言えなかったんですよ、私が、役者に。だけど、そんなことをやってのける役者は、世の中にいないですよ。それで、私自身がやるほかないということになったんです。
山岡:結局、池田さんがやるべきだったんですね。
池田:そうです。演出家という役割を背負っていたので、言えば、役者がやってくれるかなと思ったんです。水槽の中に入って、「水ピアノ」を弾く状態を想像してみたら、明確にわかります。普通の楽器の音楽は、頭に入っていた音楽の記憶が、指に伝わってドレミファソラシドと弾く訳です。だけど、水では、頭の中でドレミファソラシドとやっても、ピチャピチャとしか水音は返ってこない・・・。(いたってまじめ)
山岡:はい。
池田:今までの何かを表現する時の、青写真とかスコアとかテキストとかが全部、通用しない。水そのものと出会った瞬間、発する音へのリアクションしかない。わっと水面を叩いた時の音に、対応するしかない。そういう即興的な身体が、パフォーマンスの始まりだと思ったんですね。演劇なら、私が水槽に入ってピアノを弾いているようなシーンでは、他の役者が入ってきて「おとうさん、そろそろやめて、もう夕飯ですからね。」とかね、意味づけの台詞が出てきたりする。そうすると、何やっているのか不明瞭なものまでも、ストーリーの中に制度化されていく。そうして演劇が成り立っている。これはあくまで原理の話ですよ。で、ダンスの場合は、微妙ですけれど、まず振りがあるものですから。いかにもピアノを弾いているように振舞っても、指先に音が発生しないわけですよ。それは実際やればわかります、どこに支点があるかということは。私は、杖をついているので、硬く握るのと、柔らかく握るのとでは、全然支点が違うのを実感してますから。硬くなって振りでやりますと、外から来るものに全く反応出来ない。自分のイメージ通りに、外界を制御しえないところに、自分をもっていく、それがパフォーマンスの原理で、『水ピアノ』の構造だと。

ボイス・パフォーマンス
山岡:
さて、今日は、今お話に出ました、ボイスパフォーマンス(1981年)の記録テープを持ってきていただいています。では聞かせていただきましょうか。
池田:ええ、触りだけですけど。(テープをかける・・・・・・・・・・・・・・   )
要するに・・・これを1時間ほどやりました、新宿アートシアターで。まず、原則を決めました、やっちゃいけないことの。リズムが生まれたら壊さないといけない。リズムがあると、ぐるぐるまわってやがて自分が飽きちゃう。続かないんです。リズムは記憶されているから、口をついて出て来てしまうんです。それから、何かを喋りたくなる。それも壊すようにしました。言葉にしない。ちょっと面白かったのは、そのアートシアターの従業員の人にテープを聞かせたら、チベットの古謡ですかねと言ったんです。なるほどそうか、わたしの記憶回路を牛耳っているメロディやリズムを消しちゃうと、紐解くと言う言葉を私はよく使うんですが、紐といていくと、ついには自分の中の、私も知らない遠くのところへ行くのかなと。そこで私は確信したんですよ、自分で自分を紐解くということがいかに大事だということを。他人を驚かすよりも、自分を驚かすのはむづかしい。という手応えが、パフォーマンスとして重要ではないかと・・・・・
塩原:確かに、チベット密教のコーランに近いものを感じますね。
池田:そうですか。たぶん、自然な呼吸ということをしていくと、どこか根底にある共通のところに行くんでしょうね。何か共有のコードがあるのかもしれませんね、深いところに。それはとても重要な発見でした。道具も一切ない、何にもない、残るのは声だけ。手というのは、ある程度、コントロールつきますが、声の行き先というのは案外わからないんですよ。
山岡:池田さんはパフォーマンスは膨大であるとおっしゃるのはこういうことでしょうか。
池田:ええ、膨大です。拡がっていくし、膨らんでいくもの。自分の中のパフォーマンスに出会う旅みたいなものなので・・・。自分の中のより大きなもの、自分が認知してると思っているものより大きなものがあるはずです。たぶん、それは他者ですよ。そういう大きな他者に出会うために。
塩原:チベットの修行でも、どんどん捨てて行って残ったものをスートラといって、昔から何年も修行している人がいました。そのためには日常の言語をどうやって、捨てるかなんです。修行というか、肉体的なことがあると思います。
池田:そう。でも、苦痛ではないんです、だんだんある種、楽になっていくんです、自分自身が。
塩原:ある種、興奮状態というか、トランス状態に近づいていく御本人というのが、意識的に御自分でわかるんではないでしょうか。
山岡:演出家時代は、御自分が出ることはまるで考えてもいなかったのですか?
池田:出演することもありました。でも、気持ち悪いんです、なんか役者として振舞うことが。私が出ると、全身的に場に対応してないと落ち着かない、で、激しく痙攣するとか・・・・
山岡:台詞は言うんですか?
池田:台詞も言うのかもわかりませんが、なんか自分もわからないところに行かないとだめだと思っていますから、ぶはぶはぶはーーとわめいたり・・。
山岡:どういう演劇だったんだろう・・・
池田:めちゃめちゃ存在感のある・・・もう今は出来ません。今言えることは、自分の身体が一つの原器、物指しになって、立ち向かう方向とか、居心地が悪いとかそういう抵抗を感じたりすることを基準にしているということが、ものすごくあります。私のパフォーマンスの身体原基でしょう、それが。

第一義の行為 『プライマリー・アクション』
池田:
それから、この本(左写真『P.M.2』)。資金がなくて、殆ど手作りで作った本ですが、これはさっき触れたパフォーマンス・ワークショップ『G-day PLAN』の記録です。そこでは、パフォーマンスといって他人に計算づくで見せるよりね、即興的に何かを始める、計算なく始めるという、プライマリーアクションと呼んでいたものが、P.M.の中心になっています。
山岡:その本は1984年に出されたんですね。
池田:そうなんです・・・・ いわゆるパフォーマンスについては、私自身の身体感覚、言語感覚から言わなければならないものがあると思っていたわけですから。そこで、プライマリーアクションとかプライマリーメディアとか。つまり、プライマリーとは第一次のということです。産業でもそうですが、第1次産業、第2次産業、第3次産業とだんだん高次な産業になっていきますから、それと同じように、行為も高次になるにつれ、ダンスや演劇という制度的な表現になっていくんでしょう。そういう意味で、プライマリーアクションというのは、第一義の行為の表現というわけです。そして、現実に、私は毎日、365日アクションをしました。1日のうちに出会ったものから何かを拾い上げて、即興的に表現する。まだ見ぬ他者に提示したいという表現意識がない限り、ただの日常生活の延長ですよ。そういうプライマリー・アクションの流れが私の身体の中にたまっているのだろうと思います。そして、この本で、徹底的にこだわっているのは、モノ以後のカルチャー Post-Object Cultureということです。厖大にモノが氾濫しちゃって、これ以上モノを増やしたり、作品を作ってもどうしようもないな。そんな実感の中で、モノ以後の文化としての位置づけで、パフォーマンスを見ようとしたんですね。
山岡:そのころ、影響を受けたアーティストはいますか?
池田:ええと・・・・そんなに積極的ではないですが・・・・ビデオで、ヨーゼフ・ボイスがマルクス通りを掃除しているのがありまして。マルクス通りをデモ行進が通過していくのを、ボイスは、掃除のモップを持って、道端に立っている。デモ隊が通り過ぎた後、ボイスがおもむろに掃除を始める、デモの後に残ったゴミをね。国際自由大学のマーク入りのゴミ袋を手に、掃除を手伝っている2人がアジア人のようで、気になるんですが・・・最後は、そのゴミの詰まった袋を、ギャラリーに展示するんですね。巧みに記号を組み合わせていく手法に、渾沌としたアジアにはない何かを感じました。これは、ヨーロッパであると。まず、それが、気になった一点ですね。それから、フルクサスのリーダーのジョージ・マチューナスが亡くなった時の追悼コンサートを、ボイスとナムジュンパイクがやりました。そのビデオを見て、パフォーマンスというのは、その人の生い立ちから、持っている文化背景とかを全部あらわにしてしまうんだな、ということがわかったことです。ヨーゼフ・ボイスは、ピアノに向かって、たぶん子供の時から記憶している曲なのでしょう、それを淡々と弾いて、時々ピアノの上のラジオのスイッチをピッと入れる、その繰り返し。パイクの方は、ピアノの中にいろんなものを差し挟んでプリペアードピアノにしたり、マイクを呑み込んで呻いたり、まさにアジアの渾沌みたいなものがもろ出ていて、その違いがものすごく興味深かったですね。それで、何を思ったかと言うと、身体というものは正直で、いくら格好よく振舞っても、ぼろが出る。ボイスも下手だし、パイクも下手なんですよ。下手な分だけ、等身大の自分が出る表現なんだと。化ける表現じゃない。だます表現じゃない。ボイスがヨーロッパ人のためのエネルギー計画なら、私の方は日本人のためのエネルギー計画だなあ、と・・・。
山岡:生い立ちって事で言えば・・・池田さんは理科系の大学で勉強されていたんですよね。そして大学院まで行かれましたね。演劇をしながらですよね。何学科でしたっけ・・・
池田:高分子化学って、当時は最先端であったところで・・・
山岡:大学院まで行かれて研究されたということは、大学入って、すぐ飽きちゃった訳ではないですよね。そう言う関心と影響は、表現にありますか。
池田:まあ、当時は、真剣に両立させようと思ったんです。科学をしながら、演劇も。
山岡:時間的な両立というより、頭の使い方とか身体の使い方としての両立はできたんですか?
池田:なぜ演劇を選んだかと、いうと・・・。研究室ではプラスチックの光重合といったような研究をしていたのですが、基本的に、化学というのは、再現性というのがキーワードなんです。実験のデータが毎回ほぼ同じにならないと、真理というか、法則性が立たない訳です。ばらつきがあってはだめなんです。でも、表現と言うのは1回性、逆に、同じものが出たらおかしい、成長するものですから。表現の持ってる成長するという呼吸と、再現性を必要とする科学の姿勢が、私の中で次第に合わなくなってきて・・・。私も若くて、私自身成長するものがありましたから、それならと、演劇の道を選んだんです。しかし、今振り返ると、その体験が、科学と芸術の間をもう一度見ざるをえないということを、何か自分の中に与えてくれたのかなと思っていますけども。それは、自分でわかって見えることではないのですが・・・

.山岡:それは「池田一研究家」の考えることですね。でも、それは池田さんの表現を特づける何か重要な要素なんでしょうね。
池田:ま、そうですね。はざまが好きなのか、芸術と科学の間という領域は、いまだに私の大きなテーマですね。

アクション・テキスタイル Action-Textile
池田:
では、スライドにいきます。まず、これは『水ピアノ Water Piano』(右上写真)をビデオでやったものです。さまざまな汚物が入ってきて、どんどん水が汚れていく、その中を青色の手が演奏しているというものです。これは、第1回目の桧枝岐パフォーマンスフェスティバルの直前に、スコピオ(註:及川広信氏の企画事務所)の事務所の風呂場で撮影しました。当時のことを補足すると、さっきの『P.M.2』という本、あれが随分売れたんです。追加注文がくるなど、アールヴィヴァン(註:池袋の西武でパートの中に当時あった西武美術館に附随していた美術書店)だけで80册ほど売れました。書籍としてはかなり粗い手作りのものがですよ、これは大変なものです。
山岡:御自分でアール・ヴィヴァンに売りに行ったのですか?
池田:そうです。委託販売です。この本を見て、「パフォーマンス」を『肉体言語』(註:前記の及川氏の主宰)という同人誌で特集しようということになって、私が呼ばれて、いろいろ話をしました。でも、パフォーマンスは言葉だけではわからないから、パフォーマンスフェスティバルをしようということで始まったのが、「桧枝岐パフォーマンスフェスティバル」です。それで、桧枝岐では、実際に『水ピアノ』をパフォーマンスで発表しました(右写真)。浮かんでいるのは、アルミサッシ。私が使う材料は、だいたい日常のありふれたものです。『水ピアノ』は、多摩川でもやったり、それから、室内でも発表しました。ただ、それは時間を生み出す、大変な集中力のいる作業でして、何度もやるものではないなあ、というのが実感です。
 当時としては、私のパフォーマンスは、60年代の実験演劇、コンセプチュアルアートの課題、ミニマリズムの問題等の延長にあるものだとか、といろんな評価があったんですね。ジャクソン・ポロックなどのアクションペインティングに対抗して、パフォーマンスならば、テキスタイルだと思って、『行為の織物 Action-Textile』というパフォーマンスもしばらくやりました。これは、ソウルでのAction-Textile。先ず、ソウルのあちこちで、土と水を拾い集める。採集した川の水を、ホースに流し込む。テキスタイルですから、針と糸が必要ですよね、その水入りホースが、糸になるわけです。
山岡:これはグループの美術展ですか。
池田:そう、『SEOUL・横浜現代美術展』です。それで、私の身体が針になって、身体に水入りホースを巻いて、大きなキャンバスに切り目を入れて、そして私がミシンになって縫っていく。ミシンの機械音みたいに、ウインウインとか声を発しながら縫っていくわけです。またキャンバスの下に潜り、また別の所に穴をあけて外に身体を出して、といった具合に。(写真左
山岡:行き先というのは、わかっているのですか?
池田:どこに行くかわからない、思いつくままです。最後は、集めた土を水で溶いて塗りひろげ、そして、展示をします。私は、パフォーマンスをした行為の痕跡を、そのまま展示することが多いですね。
山岡:1985年ぐらいですか。
池田:1987年かなあ。それをもっと大規模にやったのが、岩国、錦帯橋という有名な観光地です。そこを流れる錦川の脇の地面をくの字型に掘って、そこにキャンバスを張りました。その真ん中の三角プールに、錦川から引いた水を溜める。キャンバスのところで、水しぶきをシューッと噴き上げているのは、高圧洗浄機という、ビルの壁などを掃除する時に使う道具です。ものすごい水圧なので、人に向けるのは、危険ですね。最初は、天に向かって放水しました。
山岡:どうしてこの角度は、くの字なんでしょう。
池田:新しい川だから。
山岡:よく取り残された川がそうなっていたりするもののイメージですか?
池田:三日月湖?うん、そうとも言えますね。地面より1メートルほど掘り下げてあるので、くの字型が山の上からも見えます。キャンバスの中に、水を吹き込みました。キャンバスの中で土が舞い上がって、キャンバスに土の模様ができます。実はこの時、すでに骨折していて松葉杖をついていました。高圧洗浄機を使うのは、水圧に押されて大変なんですが、私は気合いなのか、相性がいいのか、結構自在に使っていました。下写真


水鏡 Water Mirror

山岡:
骨折されたのは1984年頃ですか。そうすると、パフォーマンスをしようという気持が固まってきたころに、骨折されたわけですね。
池田:そうなんです。パフォーマンスがだんだん盛り上がってきて、いろんな企画があった頃に、骨折しました。大腿骨の頚部骨折だったので、かなり長期の入院でした。ただ、わたしは立ち止まっておれない感じで、メッセージを出し続けました、病院から。(メッセージ集を取り出す)
山岡:(読む)「全てのポストオブジェのアーティストへ、すべてのパフォーマーへ。今こそ・・・」
池田:骨折、fractureという意味も、その中で考えたりしました。でも、そのメッセージ集は、病室から知人に送っただけなのが、ちょっと残念です・・。骨折から約1年後に、骨をつないであった金具の除去手術をして、二ヶ月後、大丈夫だと思って、ソウルで、アクション・テキスタイルをやったわけです。何が悪かったのか、その翌日、激痛で、全く動けなくなりました。 なんとか日本に帰って、北里大学に行きましたら、即入院しろ、と。どのくらいですかと聞いたら、6ヶ月って。それで青ざめまして、いろいろ整骨医などに相談したりして、なんとか入院しないで直す方法がないか、と。最終的には、順天堂大学に行ったんです。骨頭が壊死状態になっていたんです。
 その頃、横浜市のライトアップ事業の一環として企画された大倉山記念館の展覧会に呼ばれていたので、私はどうしても入院したくない。これが、横浜市港北区の大倉山記念館。当初の企画は、光と水のなんとかというテーマで、30〜40人の作家を集めて、ひとりに製作費数万円出す、という話だったんですね。私はそんな展覧会をやっても意味がないと、プロジェクトチームを6組程に絞ってほしいと主張したんです。この時、柳幸典さんや、PHスタジオを出品アーティストに誘って、これらはプロセスが大事なプロジェクトなんだと、いわゆる作品を陳列するだけではない、と。そうして、私自身発表したのが、このプロジェクト『水鏡Water Mirror』です。(写真左
この『水鏡』プロジェクトのポイントは、この正方形の水溜まりには底がなくて、中の地球とつながっていることです。美術ジャーナリストの村田真さんは「地下水を通して地球全体を覆う総体としての『水』をも揺り動かしていた」と、評論の中で書いてました。水は、自分で思うように制御できないもの。よく話すことですが、水に絵を描いたり、水を彫刻したりした作家もいないし、水は、そういう人間がモノを征服したり、モノを思うように加工したり、モノを操作したりする対象から外れている、唯一のものだと思います。で、水と作家がどういう関係かというと、何か新しい共存関係、共生しあう関係というか・・・、水が私を生かし、私が水を生かす、そういう素晴らしい手応えを水と私の間で見い出したいと思ったのが、始まりですね。先ず、建物に正面からライトをあてると、『水鏡』そのもので、建物が水に映ります。反対に水にライトを当て、息を吹き込むと、向こうの建物にレフレクションされるのです。これは誰にでもできるようで、実は難しい。ものすごく優しく息を吹き込まないと、建物に波紋が起きない。だから、如何に自分が静かな丁寧な息づかいが出来るかということが、大事になります。花火見物みたいに、波紋がきれいに上がると、観客からワーッと拍手が出るんですね。

実は、この『水鏡』が、非常に大きな評価を得たんです。次は、ニューヨークのフランクリンファーネス Franklin Furnaceで、当時はニューヨークのパフォーマンスのメッカのようなところでした。「束の間のアート」のアーカイブにもなっていて、放っておくと消失してしまうアートをどんどん収集している、非常に貴重な所です。懐が深いなあと思ったのは・・・・私が、フランクリン・ファーネスのアーカイブに、私の本を送った時です。それに対して来た返事は、100人くらいのパフォーマンス申込者から10人を選んだという知らせ。そこに私が入っているんです。私から申込みをしたのではなく、ただ本を送っただけなのに・・・。資金については、ACC(Asian Cultural Council)からフェローシップ・グラントをもらって行きました。それも、私にとって大きな出会いでした。ACCというのは、ロックフェラー財団の流れですけど、ディレクターが、予め選んだ作家のインタビュウのために、なんと日本にまで来るんですよ。それで私は、帝国ホテルで、ディレクターのリチャード・レイニア氏から、インタビュウを受けました。そこで、彼が言ったことで、なるほどと思ったのは、池田一みたいな作家はアメリカにはいないから選んだという話。日本では「そういう人はあまり例がないから、どう扱ったらいいのかわからない」と言われがちですが、アメリカは逆なんですね、そういうタイプの作家はいないから是非紹介したい、と。

山岡:理にかなっていますね。
池田:感激しました。それで言ったんです、ニューヨーク滞在中は、毎日がアートワークでありたい、と。そしたら、彼は身を乗り出して、ハドソン川とイースト川は最近きれいになったから、その水を使ってみてはどうか、と提案してくるんです。
山岡:提案も、してきたんですか?
池田:そう、アーティスト冥利ですよ。それではやらなきゃと思って・・・
塩原:水はどのくらい汲んだんですか?
池田:そんなにたくさんじゃない、容器一杯くらいです。ハドソン川もイースト川も、岸壁が高くて。それでペットボトルを川に下ろして、釣っては汲む、いわば水釣りをして、溜めたんです。キャリアにのせて、地下鉄でころころ運びました(写真右上)。『水鏡』を設置したスペースでは、ハドソン川とイースト川を合わせた水を作り、やはり息を吹き込んで、壁に波紋を起こしました。最後は厚紙を四方にたらして、水の部屋といった感じに・・・少しストーリー性のあるものになりましたが。(写真右下





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