Blessing Breathes 2020

準備中 Under Construction

 “The Body Maintenance”

25th Ocotber 2020
venue: 旧大宮図書館   Old Omiya Library, Saitama
project : さいたま国際芸術祭  Saitama triennale 2020 
IPAMIA event 10 ”見えない経験、組織されない身体”

movie 記録   参考 note (生成する時間)

photos by 唐詩慧

I worked this piece on 25 November 2020 in a local Art Triennale which called Saitama Art Triennale. Saitamta-city is around 30min from Tokyo. Our member for a performance art archive (IPAMIA) was invited for two days performance event in the Triennale. We titled the project “Invisible Experiences and Unorganized Bodies”. For the first plan, we would work it in May 2020. But it was postponed, you know why. Finally, we could work it in November. We are really lucky. Many art events in the world have been canceled.  It was lucky, but we had many limitations. For example, audiences had to reserve some days before with their detail information. The space is not so large that only 20 people allowed to come in each day. And artists could not shout and touch audiences and pass any material, so on……I thought it is….. rather say cynical than unhappy. I can find many metaphors. Distance is one of most interesting item for the performance art.  And blowing and breathes (dangerous) has various meanings, to think our lives.  Simply to say, actually I like the sound “bang bang”. from the ball with the floor, our voices and our pulses and metronomes, and also maybe sound of shooting? Alarms in railroad crossings? These sounds are metaphors of daily lives, which are not “linear” like the history. Lives are large “pile of repetitions”. Think about “reincarnation”. Bang! Bang! ….

5月に開催予定だったイベントが、COVID-19の影響で延期となった。こんなことは誰にとっても経験がない。そして、感染が夏から秋にかけて小康状態になっていたため、イベントは10月に催すことができた。山岡は、IPAMIAの代表として、さいたま国際芸術祭の企画内企画として、アーティストたちとの間に入り、調整の仕事も少なからずであったため、自分自身の表現はしないつもりだった。しかし、この延期の時間を過ごす間に、パフォーマンスをしたいと思った。そして、生きていること自体が、ギリギリと感じていた。ピリピリとしていた。心拍、脈、への興味は以前からあったが、ボールのバウンド音に対するフェティッシュな嗜好とともに、それを、生の基本としての「リピート」として表したかった。ボールのバウンドは、時間の間をリズムととらえた。生命の時間は、過去から未来に流れている(歴史)というより、繰り返しのループであると考えた方が合点がいく。いつか、そのリピートとリズムが敵わなくなったときに、死がやってくる。私の出番は、イベントの最終だったので、観客参加型にして、場を揺らしたかった。参加者の脈のペースを本人に測ってもらい、その音を声に出していただき、メトロノームに翻訳した。同時に鳴らすと、えも言えぬ音響となった。その音を面白いと捉えるか、うるさいと捉えるか、つまらんと捉えるか、それは貴方次第。

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参考note 「生成する時間」

「私は自分が絶えず連続的に流れていくのを見る。自分がいまにものみこまれようとするのを見ないような瞬間がすぎていくことは一刻もない。しかし神はその選ばれた人たちを、彼らが決して水に沈まないようにささえているのだから、わたしは堅く信じる、数かぎりなくやってくる嵐にもかかわらず私がいぜんとして残るであろうことを。」 ジョルジュ・ブーレ『人間的時間の研究』

「瞬間ごとにわたしは自分から抜け出して行くような気がする・・・・」 モンテーニュ『エセー』

「魂は・・・・各瞬間がおのれの幸福の享受を奪い去ること、おのれにとってもっとも親愛なものが間断なく流れ去ることを見て、愕然とする」 パスカル『パンセ』

「もし、いわば私が、各瞬間、なんらかの原因によって新たに創造されないとしたら、そのあともなお存在するはずだという結果は生じない」 デカルト 

「人間は、自分を見棄ててゆくこと、自分の前に閉ざされた未来とのあいだで、思い出もなく、希望もなく、いったい何をしようというのか?」 コンスタン『宗教について』

「死への抵抗、長い、毎日の、必死の抵抗・・・しかもその死は、断片的、継起的な死であって、われわれ一生の全持続に割り込む」 プルースト『花咲く乙女たちの影に』

「時間の流れもひどくおかしい。時間がばらばらになってしまって、ちっとも先に進んで行かない。てんでばらばらで繋がりのない無数の今が、今、今、今、今、と無茶苦茶に出てくるだけで、なんの規則もまとまりもない。私の自分というものも時間といっしょで、瞬間ごとに違った自分が、何の規則もなくてんでばらばらに出ては消えてしまうだけで、今の自分と前の自分との間に何のつながりもない。……ずっと以前にあった本当の自分がだんだん遠くなり、見えなくなってしまう。」 木村敏『自覚の整理病理』「離人症のあらゆる特徴を完備した典型例」

「ホピ族にとって時間は・・・・消費されるのではなく、蓄積されるのである。それはいわば日の繰り返しが同一人物の再訪と感じられているようなものである。」 ベンジャミン・ウォーフ『言語、思考、現実』

「いくつかの未開社会では、時間は、持続しない何か、くりかえす逆転の反復、対極間の振動することの連続・・・すなわち、夜と昼、冬と夏、乾燥と洪水、老齢と若さ、生と死という具合である。このような図式にあっては、過去は何ら「深さ」をもつものではない。すべての過去は等しく過去である」 エドムント・リーチ『人類学再考』

もしかりに消滅が時間の働きであるという論理をとるならば、少なくとも生成は同じ資格で時間のはたらきであるはずである。

以上、『時間の比較社会学』真木悠介(岩波書店)より