Performance: Live Art since 1960 Roselee Goldberg

写真集
『P
erformance : Live Art since 1960
Introduction

Roselee Goldberg

このテキストは、ゴールドバーグ氏が1998年に出版したパフォーマンスアートの写真集の「序文」である。以下の訳文を書いた山岡は手許にこの本を持たないため、友人から借りてコピーをとった。本書の写真は豊富。興味のある方は、Amazon、洋書専門店(Nadiffなど)で手に入れてください。

英語からの拙訳/山岡佐紀子

*目次*
1.パフォーマンスアートの現代における評価
2.パフォーマンスアートの定義とその波及
3.1960年代
4.1970年代
5.1980年代
6.1990年代以降
7.記録写真とパフォーマンスアート

. パフォーマンスアートの現代における評価


 パフォーマンスはまるで定義のできないものだった。(ローリー・カルロス)

 1970年代の後半に私がパフォーマンスアートについて最初の本を書いた時、それを主題にした出版物はほとんどなかった。専門分野を取材したものでは、たとえば未来派パフォーマンスやハプニングは互いに関連性のない別々のエピソードとして扱われていた。名前のつけられていないあるメディアの最初の歴史を組み立てるという私の仕事は、古い記事やかげろうのような記録写真を通しての調査であり、忘れられたすべての資料を捜し出すことをであった。だから、それがカテゴライズされるべきでなかったり、実際には行われていないものだったり、直接な資料がもはやなく記述されたものだけだったりすることは、大目にみるしかなかった。にもかかわらず、私は私の本に予想外の結論を与えて仕上げたのだ。アーティストたちによるライブアートがそれ自体の時代の精神をあらわし、違った秩序(discipline)をもつそれぞれのアーティスト同士の活動に、互いの関連づけられる方法を明らかにするだけではなく、絵画や彫刻にあるような思想が、つまりそれまでの芸術にみられてきたような伝統的美術史上の思想が、いかにパフォームされたアクションの中にもしばしば生まれるものなのか、ということをそれらの資料は私に教えててくれた。事実、20世紀を通してパフォーマンスの歴史は、最も根源的で過激なアートの形式のいくつかを実験するラボラトリーとしての、実践でもあった。それは知識人やフォルマリストにとってはまだどうとでも解釈できる(freewheeling)、恣意的な(permissive) 活動であったが、しかし注意深い研究によっては、それはアート、これまで単純には理解されないある種のアート作業(art-making)を意味するものの様々な系譜を、明らかにすることのできる、あらゆる種類のexcursions(遠足)を意味した。つまりそれらは、アートの歴史研究の大きな絵に欠けている一部分(missing piece)なのである。
 

 90年代にはパフォーマンスは美術史だけでなく、最新の現代文化の一連のもの哲学、写真、建築、人類学やメディア研究なども関連を持つものとなった。パフォーマンス――自伝的ひとり語り、あるいは個人儀式、ダンスシアターあるいは芸術家によるキャバレー、などなど――は、身体、ジェンダー、多文化のような問題に関わる現代的な視点を考える上で無類の素材を与えている。それはアーティストによるライブアートが知覚を伴う心理学であり、実際性のある概念であり、アクションを伴う思想だからである。最近の批評論理の傾向によると、アートを見る人、文章を読む人、映画や演劇を見る人はすべてパフォーマーである、なぜならあるアートワークへの私たちの“ライブ”な即時的な反応が、作品の完成の基本だからだそうだ。レクチャーや批評がテキストを“パフォーマンス”する時でさえ、私はこのページの上でも、それぞれの読者が、彼/彼女たち自身の社会的、経済的、心理学的、教育的経験を行間にはさみこむのにまかせているということになる。このように、私たちは全てが活動家であり、もはや文化の受け身な受容者なのではなく、思想を形成する視線を持つ、共同制作者なのである。パフォーマティブという言葉は「絶え間なく活気づいている(perpetual animation)」という表現から生まれた。そしてそこではアカデミックなテキストでは、アーティストと見る者の間の結合 の重要性が強調されているようだ。また回想的には、ジャクソン・ポロックのヒロイックなペインティングやジャスパー・ジョーンズの静的(calm)なペインティングの中でも人型を取り込んだ作品などにパフォーマンスの起源としての深い意味での役割を見ることができる。アメリカの美術史家マイケル・フリードによって書かれた1967年のエッセイ『アートとその対象(objecthood)』は今、非常に重要視されている。なぜならそれは、ミニマリストが、アートにおける純粋抽象の絵画と彫刻が自ら仕掛けたステージで「劇場状態への接近」し、「アート作品が眺める人に向き合う」ことを要求したのに、自らそれに敗北したことを引き合いにしているエッセイだからだ。現在の批評界では、その言葉は多くのとても様々なタイプのアーティスト、シンディ・シャーマンからエリック・フィッシャルやマシュー・バーニーに至るまで、彼等の作品を説明するのに使われている。彼等のアートはそれらのそれぞれの特殊性において、「パフォーマティブ」と解釈されている。写真家のリチャード・アヴェドンによれば「すべての肖像画はパフォーマンスである。」レンブラントでさえ「彼が自画像を描く際は単に顔を描くためにポーズをとったのではなく…それは日常の彼の人生を通して行っていた行為であり、それはパフォーマンスの全ての意味での伝統だった。」

 このようなパフォーマンスおよび作品のパフォーマンスな質にを強い関心がもたれるようになって、新しい出版物では、パフォーマンスアートと心理学や教育学、ジェンダー,男性学、人類学、人種学、そして政治学との関係を論題にした幅広いスぺクトル(分光)に富むようになった。そこでは、しばしば繰りかえされるイメージの巨大な記録(bank)から始まる――イブ・クラインの『虚空への跳躍』、カロリー・シュニーマンの『胎内スクロール』――それはマルセル・デュシャンの『泉』やアンディ・ウォーホルの『スープ缶』が現代美術の研究においてそうであるように、パフォーマンスアートの歴史においてイコンになっているらしい。加えて、パフォーマンスの研究は、アメリカ、イギリス、ドイツの大学の中の専門学部で、その可能性を広げてきた。だんだん研究資料の記録を増やし、ダンス、劇場、音楽、文学、メディア研究と、パフォーマンスアートとの複雑なつながり(web)を組織化した革新的なカリキュラムがつくられた。同時に、美術館は、パフォーマンスアートにおける膨大な展覧会の山を踏破するために、専門のキュレーターに職権を与え、また新しい美術館の建築プランの中にライブアートのためのスペースを加えるようになってきた。

 いくつかの要因がこうした関心の高まりを説明する。一つには、この20世紀末の現代生活に見られる相互作用性ということがある。それは参加型のものを多く生み出している。たとえば、バーチャルリアリティのゲーム、いっしょに歌えるカラオケ、それからボタン一つで観客が映画の物語の方向性を変えることのできるものまである。サイバースペースはユーザーに絶え間なくムーブメントのイリュージョンを提供する。新式の画面では説明書の文面でテキストが波打ち、言葉がページの周りでスリップしたりして、まるで生き物か何かのように見えたりするものさえある。多くのアーティストも同様に、このような時代の潮流の中で生きている。彼等は美術史のメディアやイコノグラフィーを視覚的引用という方法で破壊し、大胆なスぺクタル――絵画、写真、そしてパフォーマンスアート――にリメイクしている。流行の批評理論の雑誌上の最もお気に入りの言葉さえ、――「視線(gaze)」と「他者(other)」――アクションを隠喩している。距離(distance)は、見る者(gazer)と物体(object)の間に、あるいは「他者」と「同一(same)」の間に横たわっているはずのものだ。後方と前方(back and forth)、様々にリアリティを表現すること(variouly depicted realities)と、ハイカルチャーとポピュラーエンターテイメントとの間の薄い分水嶺を渡ることの間の、この絶え間ない往来は、パフォーマンスアートにとって得がたき獲物(captured)である。つまりパフォーマンスアートは、その周縁の位置から文化のその目下の強迫観念をにじみ出す方法(tentativeness)を得ているのである。

 パフォーマンスアートの幅広い興味の起こったもう一つの理由は、70年代がパフォーマンスの形成期であったということが今歴史となっていることである。研究者やキュレーターはこの時代の綿密な調査を行っている。つまり、この年月にパフォーマンスのマテリアルの量が圧倒的に増えているのをただ調査するだけでなく、知的な命題を掲げたコンセプチュアルアーティストががいかなる種類のオブジェ(objects of any kind)をも創ろうとする欲望をもほとんどあとかたもなく無くしているのに注目する。この頃、パフォーマンスアートはアクション、ボディアート、それからオペラ規模のものなどで栄えていた。思考のアートから置き換わっただけのことだが、その時最盛期であったアーティストの運営のオルタナティブなスペースでの、アバンギャルドな小さなグループのアーティストたちは、その直系だった。このころの資料を吟味すると、現代美術史家たちは、この時代にのちの多くの形式的で美学的な80年代や90年代の感性の原型を見つけだしている。80年代のメディアの使用や意味付けの魅力は、たとえば70年代に多かった知的なコンセプチュアリストたちのいくつかの教室から直接生まれたものであり、一方、ストレートな記録のメディアとしての写真の先駆けた使用は、20年かけて90年代末の非常に体裁よく仕上げる写実主義(art-directed naturalism)として開花した。歴史家たちは――空間の、アイデンティティの、物語の尺度としての――身体が、70年代のアートにとってそれがとても求心的であるが、一方現在の90年代末のアートやその研究ではそれが拡散的であるとも見ている。

 確かに、芸術の歴史家たちの最も新しい世代は――彼等自身圧倒的メディア主導文化の生産者であり――少なくとも、この世紀のパフォーマンスの歴史の再評価を始めている。私の初期の著作の中に書いたことをなぞっている者や、数百もの接線をもったルート上から出発する者もいる。これらの研究者たちは、パフォーマンスアートのいくつかの点を、システマティックにファインアートの絵画や彫刻に結び付けて拡大解釈している。それは彼等がこれまで様々な絵画作品を複雑に関係付けた時の方法に似ている。
 現在の優位な点から言うと、過去はいつも何かのプロセスである。そしてこの20年を通してのジェンダーやセクシャリティ、「他者」の文化についてのラディカルな問いは、まるで彼等なしには知られることのなかったかと思われる。広範囲で豊富な理論的な論文(それは関係性を読み解くフランスの構造主義や脱構築の述語を使用することによって、アートと哲学に同じくびきを繋いだ70年代のコンセプチュアルアーティストらによってなされ始めた)に支持されて、この新しいマテリアルはそれがなければ開かれることのなかった多くの文化的、美学的歴史に、これまでなかったような窓を開いたのである。流行の批評の万華鏡は、それゆえ休み無く再形成される。80年代の多文化主義は、たとえばいわゆる北アメリカや西ヨーロッパの国境を超えた文化の学問に活気を与えた。アフリカ系アメリカ人、ラテン、アフロカリビアン、分散したユダヤ、日本や朝鮮、南アメリカの芸術や文化はすべて研究のテーマである。もはや隔たり(distant )について言及する専門家はほとんどなく、このテーマはアートやパフォーマンスそれ自身の最も伝統的な歴史に折り込まれている。このマルチカルチュアルな意識については、マリネッティの1909年の未来派宣言がパリのル・フィガロに掲載されたたった3カ月後に日本で出版されていたり、日本、ヨーロッパ、アメリカのハプニングやフルクサスの活動に始動的関係性をもたらしたのが、50年代と60年代初めに日本の具体のムーブメントであったことなどを、すでに私たちは認識している。*

 

 

2. パフォーマンスアートの定義とその波及

 そして今パフォーマンスの定義は、open-endedする。私の初期の著作では、私はパフォーマンスアートはアーティストによるライブアートであるというシンプルな宣言以上の、几帳面なあるいは安易な定義付けを拒むものであり、様々なパフォーマンスアーティストやパフォーマンスに関する著作がいろいろ出たとしても、なおもその定義の領域は広がって行くだろうと、書いた。またこの言葉は、アーティスティックな努力(endeavor)の範囲を広げ、文学、詩、演劇、音楽、ダンス、建築、絵画と同様、ビデオ、映画、写真、スライドやテキスト、そしてこれらのコンビネーションなどの実に様々な芸術的技術(discipline)を含んでいるため、なおもやっかいであいまいなままなのだ。イギリスではライブアートという言葉が使われており、何故ならその方がより直接的で説明になっているからであり、timebased artという言葉もそれと同じくらいしばしば使われる。オーストラリアではパフォーマンスは全く特別に伝統的劇場の作品に対して使われ、一方、パフォーマンスアートは、アートスクールの格式ある卒業証書を持つパフォーマンスアーティストに対してのみ使われている。
 それでも、初期の定義は20世紀のアートワールドのコンテキストに含まれる作品を言及しているので、有効である。それはアートスペース――まず小さなギャラリーで、それからオルタナティブスペースと呼ばれる場所で、それから美術館で――そこでは、最も実験的な音楽の、ダンスの、観客を巻き込むライブイベントなどの新しい作品が見られた。それはその特殊な秩序の確立によってついに理解され受け入れられるようになる以前のことだ。たとえば演奏家で作曲家であるスティーブ・ライヒやフィリップ・グラス、コレオグラファーのTrisha Brown、Lucinda Childsあるいは演劇、オペラの演出家ロバート・ブラウン、彼等の初期のアーティストはそれぞれが、アートの観客と70年代初期のインデペンダントのアートスペースによってほとんど非開放的に支持されていた。これらのアメリカのアーティストたちが、オフィシャルな音楽、ダンス、演劇の世界の中にようやく、まるで放蕩息子のように迎えられたのは後になってからのことである。同様にアメリカの俳優Eric BogosianやSpalding Grayは主流の劇場で、あとでよく行われるようになるずっと前に、ダウンタウンのアートワールドのひとつで、彼等のモノローグを考案し、評判を得ていた。アートワールドはこうして、伝統的なトレーニングなしの独特の秩序をもったアーティストにライセンスを与えた。たとえば、何ら楽器の演奏のないコンサートを行ったジョン・ケージや、歩行とおしゃべりだけからなる作品をダンスしたイボンヌ・ライナーなどに。これらのアーティストたちが行ったようにゼロから新しいジャンルを発明することが可能なのは、私たちがアートワールドとよぶものだけである。なぜなら、アートワールドは依然、最も自由な文化であり、社会的sub-setsなものであるからだ。その支持者たちはアーティストたち自身と同じくらい圧倒的で挑発的であり、アートをめぐる枠組みに絶え間なくチャレンジし、拡大したり、再定義することに熱心なのである。

 挑発はパフォーマンスアートの常なる性格であり、アーティストが、――最も広い意味での政治か文化か目下流行の出来事に関わる――変化に対応し、変化をを引き起す気化性の形式である。たとえば、絵画、彫刻、写真、劇場、ダンス、文学にさえも、そのより伝統的な秩序に対して。パフォーマンスアートは決してひとつのテーマ、問題、表現のモードに排他的におさまったりはしない。むしろ様々なケースに対して挑発的に反応することによって自らを定義する。観客を魅了することを目的にすることはまれなことで、魅了の技術について批判的に検討し直そうとしているかのようだ。むしろ、あいまいに彼等の期待に応えるよりも、プロセス上やむをえず見る者をがっかりさせる方を選んだ。それは時々ばかげたものかもしれないし、グロテスクでおどかしのようなものかもしれぬ。あるパフォーマーたちは彼等の作品を通して、タブーやおそれの根源をさらけだすのを目的にしている。「私は私が最も恐れているものからしか学べない」ト言ったマリーナ・アブラモビッチ、このベルグラード生まれのアーティストは、彼女のしばしば危険を伴ったパフォーマンスのことをこう話す。その一つは、彼女の頭ににしきへびがターバンのように巻き付いているものだ。他にはニューヨークで活躍しているヴィト・アコンチの初期の作品では、目隠しして、観客の間で、金てこを振り回すものがある。また、見る者をぞっとさせる作品、たとえばウィーンのアーティスト、ヘルマン・ニッチの動物の死体と血まみれのになるパフォーマンスによる儀式的な祝祭や、オーストラリアのアーティストで、ステラークとして知られる彼は、彼の皮膚にとがったフックを通し、にぎやかな通りの上に2階からぶら下がった。

 行儀のよさや許容されるなどというレベルははるか超えて、特別な問題との関わり、たとえばAIDSの問題や検閲の必要なこと、子どもにはみせられないようなことも気にもとめず、パフォーマンスアーティストは時に隠喩的に、時に文字どおり観客の目の前に暴力を投げかけてきた。アメリカ人のカレン・フィンレイは泣きわめくサイレンのような声を張り上げて、トランス状態に入る。ぞっとして神経質になった観客は親密さにおいて互いに一つになる。キッパー・キッズ――イギリスとドイツの出身で、今はアメリカをベースにしている――はアートシーンきっての可能な限りおかしなデュオだ。視覚的効果をねらって彼等は、粉袋、鮮やかな色の絵の具、スープの缶などをお互いに投げあう、時々、観客に対しても。彼等のドリッピングペインティング、ティーポットとかわいい雨傘のライブ“コラージュ”は、寄席芸人のフラナカンとアレンあるいはアボットとコステロなどを呼び戻す歌や歌真似のまざった、ぶうぶう声やどなり声によって句読点が打たれる。

 パフォーマンスアーティストは私たちが二度見ることのできないものを見せる。あるいは私たちは、決して二度見ないことを願う。結局私たちは予期せぬことを期待し、心の目の印象に残るような唯一のイメージを、望んでいたのだと気付かされる。





 

 

 

 3. 1960年代

この20世紀が終わろうとしている今、ライブパフォーマンスは、芸術の世界のかつてない新しい表現の重要な形態であろう。日本で、ヨーロッパで、北アメリカで、世界中のほとんどの地域で、思索的にあるいは批評的に、急速にあるいは挑発的に、あるいはしばしば政治的、芸術的、社会的問題を強く意識した活動が行われている。90年代にプロデュースされたパフォーマンスの帰するところは、映画、演劇、オペラ、ダンスシアター、マルチメディアアート、環境アート、ビデオ、写真、インターネット、広告、若者文化等の美学やその内容に影響されながら、この1960年からのその発達ふりを総括する試みに応えることだった。その20年もの期間は、パフォーマンスアートを行うアーティストの爆発的な増加だけではなく、その異常な弾道につきあってきた批評家や歴史家たちの文化論からの影響は見逃せない。

 多くのアーティストが、伝統芸術の歴史の流れを取り返しのつかなく途絶し、絵画や彫刻と言う確立されたメディアとのdouble-headed canonに挑戦した最も過激な形式としてのライブパフォーマンスを行うようになったのは、1960年代のことであった。パフォーマンスという方法は非常に様々な“開業医”たちを魅了した。ヨーロッパでは、イブ・クライン、ピエロ・マンゾーニ、ヨゼフ・ボイス、ヘルマン・ニッチ、日本では吉原治良、小野洋子、田中敦子、久保田成子、草間弥生、アメリカではカロリー・シュニーマン、ロバート・ウィルソン、クレス・オルデンバーグ、ロバート・モリス、イボンヌ・ライナー、アラン・カプローなど。彼等は、アクションのアートを、――作品の中でリアルタイムのアーティストの身体的存在にによって観客に直面し、――パフォーマンスは終わると同時に存在しなくなるアートの形態であると考えていた。しかし、彼等は多かれ少なかれ、彼等の周りで激変する政治的、社会的変化に対して感応しやすかった。彼等の行ったイベントは感覚の感知にまつわる新しい領域――行動心理学、解放されたセクシャリティ、メタファー、劇場文化――の探究者たちとの間に想像的エネルギーの火花を散らした。いわゆるart-makingに対して慎重なアンチフォルマリストだった彼等の内の幾つかの分派は、広く世界のため社会革命をおこしたいわゆる「60年代たち」と同じく、アートの世界の中でその領域を広げ、ラディカルになっていった。

 50年代の戦後実存主義のangstが始まって、60年代のアーティストたちは詩的で同時に荒っぽいパブリックジェスチャーを創造した。制作の精神はしばしばサルトルの実存主義を引き継いでいた。「無」の感覚や不在は、イブ・クラインの『Void』とタイトルされた1958年のパリでの有名な展覧会に影響を与えた。白く塗られただけの空っぽのギャラリーに、選ばれた観客のみが招待された。入った人々は自分以外に面と向かうものは何も無い、それは自己定義が、ほとんど完全な不在に等しいことを明白に意識させられる知覚の隠喩であった。単に「存在する(being)」あるいはその現前(presence)は、風倉匠の1962年の東京画廊での展覧会のエッセンスであり、彼の野外での展覧会をやめさせようとする警察の威嚇に対する抵抗でもあった。匠の『the Real things』はギャラリースペースの中に、あらゆる装備や言及なしにただ裸でいる、といったものだった。ただそこにいること、現実の時間の中に、匠はオブジェとしての彼自身を提出した。それは商品価値としての伝統的なアートの製品(product)との対照をなしていた。この意味で見る者は、創造するということはまず、アーティストの心と身体に帰属していることを思い出させられる。1961年の初め、ミランギャラリーでピエロ・マンゾーニは、選ばれた数人の参加者の腕に彼の名をサインし、それぞれが「Living sculpture」であると宣言し、その確認としてそれぞれ「真実の証明書(certificateof authenticity)」を与えた。マルセル・デュシャンの「Found objects」の精神を実践として、マンゾーニの彫刻は、アートの作品として物や人物にラベルをして、一時でも人物の自己意識を美学的な興味と思索のための純粋に物質的な立体像、あるいはオブジェのようなものに変えることのできる、アーティストの特権を主張している。

 すばらしいアイロニーの感覚がこのようなふるまい(gesture)に、深く同時に滑稽に表われている。これらアーティストにとって、ハイアートの重いマントを脱ぎ捨て、毎日の生活がアートにとっての素材であるだけでなく、それ自体がアートなのだと宣言することは重要であった。20世紀のかなりの初期の頃から、古典的なアカデミックなアートの物語も、未来派やダダイストによるライブパフォーマンスなどに見られたように、日常の生活の物の断片を取りこんだコラージュや環境アートなどを通して、現実の経験への知的、感情的共感を好みとする方向になり始めていた。一方、パトロンやコレクター、美術館の手中に入る商品価値としてのアートに対する疑問と挑戦の欲求が増えつつあった。マンゾーニは、彼自身の排泄物を缶詰めにして、時価の金と同じ価格で製造販売した。それはアーティストの感情(passion)を物と現金の交換に帰しているアートマーケットを批判しているのである。そのようなふるまいによって示している問いは、いかにアーティストがアートの世界で、あるいは一般の世界で機能するのか?という、未来派や後半のロバート・ラウシェンバーグがそれを表現しているような、アートとlifeのギャップについての問いである。その二つを近づけようとする希望、あるいは区別をなくそうとする希望は、1980年代には「ハイアート」と「大衆芸術」に掛け橋を掛けようとする強迫観念として続き、その向こう見ずな希求をライブパフォーマンスというメディアの実践の目的にしようという選択をした者は多かった。

 より形式的で絵画的な述語(term)を使い、ファインアートにライブアートの網がけをすることで、それ自身カテゴリーとなった、ポロックの彼のロングアイランドでの40年代の革命的運動(athleticism)――床の上に寝かせたキャンバスの上に行ったり来たりしながら、缶から直接に絵の具をドロップする――から、ジョルジュ・マチューの1954年のパリでの有名なパフォーマンスペインティングまでは、演劇っぽく掃いたり、なで切りにしたり、あるいはしばしばアーティストが特製の衣装を着たりすることなどで、それらは実践されていtた。描くことの身体性、アーティストの身体のキャンバスへのかかわりは、多くのパフォーマンスを描くことに必要な構成としての身体へと導いた。1955年日本では、最初の具体の展覧会があり、白髪一雄はぬれたmuckの棒に巻き付けられることで「mud painting」を作った。次の年、彼は彼の足で巨大な抽象絵画を書いた。また、具体の仲間の島本昭三は公開でキャンバスに絵の具の瓶をぶつけるパフォーマンスを行った。50年代の末、アメリカではアラン・カプローが最初のハプニングを行った。それは彼を取り囲む世界に直接参加することによる彼のレリーフ(relief)的表現であると、彼は言った。「私は時間と空間の拡張概念としての図像的隠喩を絵画でにおいて表現するという考えのすべてを単にやめてしまったまでのことだ。」彼は「アクションぺインター」から「アクションアーティスト」にシフト替えしたことを述べた。画家カロリー・シュニーマンは1963年に大胆にステップして裸になり、仲間のロフトで巨大な三次元的絵画構成を行った。この個人的パフォーマンス『eye body』は写真におさめられた。シュニーマンは彼女の身体を作品の中に加えたかったのだと言った。「必要なマテリアル……..構成の次元を超えています。」

 1960年代にはとても様々な身体(body)に関するコンセプトが、ニューヨークのコレオグラファーのイボンヌ・ライナー、トゥリシャ・ブラウン、ルシンダ・チャイルド、スティーブ・パクストン、シモンヌ・フォーティ、そしてジュディス・ダンらのグループによってアートワールドに紹介された。このうち何人かはカルフォルニアのアナ・ハルプリンのダンスワークショップで互いに顔を合わせており、他のマース・カミングハムのスタジオで、ロバート・ダンのコンポジションクラスで会っている。完成されたダンサーたち、彼等は1962年にジュドソンダンスシアターを結成し、伝統的なバレエステップの代わりに普通の動き、つまり、歩行、ランニング、ジャンピングを、また日常の労働、たとえば箱を運ぶとかたまねぎを剥くなどの動きを取り入れたワークショップを組織した。彼等は、身体がいかに空間の物体のようにひっぱりあげられたり、運ばれたり、動かされたりすることができるか、maltiple meaningsを運ぶ能力があるかを示した。ニューヨークのワシントンスクエアにあるジュドソン・メモリアル教会での最初の「コンサート」はダダやジョン・ケージのチャンスのコンセプトを織り込んだ、人を驚かすようなイベントだった。マース・カニングハムのナチュラル・ムーブメントの調和の思想は、禅の教義である「在」や、一般に60年代に信じられていた、階級のない、排除のない、コミュニティの思想に裏づけられていた。誰もが踊ることができ、何もかも――映像・詩・行為――がダンスとなりえた。彼等の向こう見ずな創意は、キャロリー・シュニーマン、ロバート・モリス、ジム・ダイン、ロバート・ラウシェンバーグのようなアーティストたちを引き付け、ダンサーの時間や空間の全く違った理解によって、また他者の身体に近く接近することからうまれるムーブメントのヴォキャブラリーによって魅了された。彼等のコラボレイティブ・「コンサート」はそれぞれの参加者の身体的興味を開拓し、焦点を絞る手段(shift)をハプニングから(それはジュドソン・メモリアル教会でも行われた)より絵画的、造形的効果に絞りこんだ。どちらのパフォーマンスのスタイルの活動場所もジョン・ケージの風変わりな作曲のクラスを透写していたが、これにアイデンティティ、政治学、無意識の問題にあてて、コンセプチュアルな土壌を壊したのはコレオグラファーの方だった。彼等のこうした動きと話し言葉の関係の探究は1960年を通して、他の試みをなしていた他のアーティストたちにも広く伝わった。



 ヨーロッパでは世紀の初めから長いパフォーマンスの歴史があり、ライブアクションはアメリカでよりずっと政治的なレトリックに重きをおいていた。特にフランスでは、ジャン・ジュネそしてジャン・ポール・サルトルたちヌーベルバーグの名声以前にパフォーマンスは「闘争的アート」として「政治的で芸術的な革命」の部分と見なされてきた。フランスのアーティスト、ジャン・ジャック・レベルはニューヨークでハプニングに参加した後、帰国して「自由表現祭」のシリーズを組織した。このイベントはシグムント・フロイトの『トーテムとタブー』やハーバート・マルクーゼの『エロスと文化』のようなテキストに知的親近感を持つものだった。「ハプニングの中でタブーをおかす」と彼は書き、「参加者のすべてに、政治的、社会的、経済的、芸術的、性的専制政治の廃止の心の準備をさせる。」60年代初頭のシチェーショニストたちは、パリをベースにしたもの書き、哲学者、詩人、アーティストのグループで、文明の不安の哲学を『行為の詩』―「革命は祭りとなり、やがて消えてゆくだろう」へと結びつけた。彼等は1968年のパリの路上で、文化的、社会的に爆発し、しばしばそれは、日常生活と政治的な結び付きを一時的に壊すものとして、パフォーマンスイベントの形態をとった。

 ドイツのヴォルフガング・ヴォステルやヨゼフ・ボイスのパフォーマンス、フランスのロベルト・フィロー、Ben Vautierら、オーストリアのヘルマン・ニッチやギュンター・ブルス、チェコスロバキアのミラン・クニャーク、日本の小野洋子、久保田成子、イギリスのグスタフ・メツガー、ジョン・ラテムはフランスのシチュエーショニストのアクション同様、現代の政治的、芸術的イデオロギーの広い視野をあらわしていた。しばしば、暴力的に破壊的に――ナム・ジュンパイクの有名なパフォーマンスでピアノを一台壊した――抑圧的な政府似対する社会的反抗の怒りの爆発によるアクションは、ヨーロッパやアメリカを横断し、アーティストたちのアクションの「協力しあった若者の国際的階級」をアピールした。ジェフ・ナッフルはそれを『Bomb Culture』(1986年)に以下のように書いた。「若者たちは社会を正すのでは無い、まともにするのだ(regurgitating)。」それらは相互変革的(interchangeable)にハプニング、Aktionen、Art Aktuel、Art Total、フルクサスなどど呼ばれ、60年代にパフォーマンスは世界中に広がり、どんどんアーティストに影響を与えていった。Bandwagonをともにしたいというのではなく、正確には、その急速な社会の流れの文脈上のそのopen-endなマニュフェストが、彼等に新しい思想を作らせて、パブリックな状況(setting)の中に提示されていったのだった。パフォーマンスは、ストリートあるいは時々劇場でのアクション、草の根デモンストレーションに参加した大きなグループとともに、時代の政治活動に接して関わっていた。グループ参加、即興、勢ぞろいの衣装をつけた特殊なコラボレーションなどのイベントの方法は、政治抗議としてのスタイル同様、視覚芸術、劇場、映像等に、影響を与えた。たとえば、ジョン・レノンと小野洋子の1971年の『Bed Peace』、2人はアムステルダムのホテルの一室のベッドに数日間とどまり、説明のために報道記者会見を開いた方法は、平和運動と、小野のフルクサスでの作品の取りおこないの、両方の要素があった。

 政治的イベントもハプニングもともに、この戦後世代が他の人たちに向けて自らの在り方を表わしたいという強い意志と、共感し合える同世代の仲間意識に促された勢いがあった。アメリカでもイギリスでもフランスでドイツでも、1968年から69年にかけて、組織された学生たちの反抗と、もう一方でアーティストたちに組織されたイベントは、ますます強くなろうとしていた。ケント州の大学での対決、シカゴの民衆大会、サン・フランシスコのバーグレー人民公園、ウッド・ストック、ナントレーのパリ大学、ロンドン経済大学校――すべてがベトナム戦争、アルジェリア問題、公民権運動、冷戦、原水爆、フェミニズム、性解放等の爆発的問題に応じてこの60年代に始まった政治的、社会的嵐の聞きを反映するものだった。そしてトッド・ギトリンは書く、「70年代始めには、大変動の季節は終わった。」





 

 

4. 1970年代


 しかし、アーティストのパフォーマンスの種子は広く深く蒔かれていた。政治的関係の視点が低くなったのにも関わらず、70年初期にアーティストたちは、ライブ・ワークの直接的な体験のパブリックな領域に、深くアートを強める試み(attempting)から得られた分析的な実践の、残余的効果を失わずにいた。新しい世代は、共闘的、パブリックなイベントのバリケードから、アーティストのためにアーティストの作ったずっと断章的な(discursive)マテリアルを創ることへと後退していった(step back)。オルタナティブスペースと呼ばれる空間は、70年代初期のニューヨークのダウンタウンで、70年代中期にはロンドンで、アムステルダムで、オーストリアで、ナイトイベントが開かれた場所であり(昼はインスタレーション)、アーティストか入場料を払う少数の観客たちが来ていた。徹底的にアンチ制度的なこれらアーティストの運営するプログラムはギャラリーや美術館の世界の選抜的な機構や、彼等に導水管を引くような批評家やキュレーターに完全に無関心であった。そのかわり、彼等は前の10年の教訓をよく理解していたパフォーマンスアーティストの波の流れの上に、多くのメディア――音楽、ダンス、詩、映像、ビデオなどを加えた。また、彼等は彼等のアクションの上に知的なひと塗りを加えた。たとえば時間と空間の重要性、パフォーマーと見る者との関係性など。しかし、彼等は自己充足的なアートワールドを超えて、観客に逆説的な発見のコミュニケートをしようとすることは、ほとんどなかった。

 1970年の間、コンセプチュアルアートが、見る者の何か教訓的な内容や非消費主義的イデオロギーの問いに、答えられないでいる時、パフォーマンスアートは時代の要求に優位なアートになった。マテリアルの範囲はどんどん大きくなり、ボディアート、生ける彫刻、自伝、フェミニズム、儀式、コスチュームアートなどを含み、制作のスケールはそれに伴って拡大した。70年代の中ごろ、アメリカのアーティスト、ロバート・ウィルソンは建築家の背景を持ち、巨大なシアターワークを構成し、音楽、ダンス、シナリオのある24時間のスぺクタルをつくり出し、アーティストのパフォーマンスとしては新しい視点を持った。作曲家のフィリップ・グラスは『浜辺のアインシュタイン』で共演して、5時間にわたる視覚と聴覚のスぺクタルをなし、この2人はこうして最も新しいアバンギャルドなオペラのステージを創った。

 ウィルソンの「イメージの劇場」は、アメリカのリチャード・フォアマンの知性のための劇場に同様に通じるものがあった。それは小さな劇場にうずたかく置かれたオブジェと言葉と役者を複雑に構成されたものだった。ステージの脇か前方に演出家はいつもマイクを持って座り、あたかも彼の脳を複雑にあやつる指揮者であるかのようにふるまう役者たちから得た、論争的な文章の、その逸脱した意味を断続的に説得調にしゃべった。アメリカのパフォーマー、メレディス・モンク、ウースターグループ、マボウ・ミネス、スクワットシアターなどは、その10年の変わり目に他のアーティストとの共演という発明的な経験をきっかけに、パフォーマンスシアターを豊かなジャンルに創り上げた。スペースは、動きのある視覚的平面として、話し言葉は物語というよりむしろ音として、音楽はリズムやメロディ、ハーモニーとしてではなくコンセプトであり、建築的な環境として、身体はこれらすべてのエレメントをつなぎ合わせるピンとしての役割を持つ。伝統的な劇場や、アバンギャルドな劇場でさえ、このような見方はされたことがなかった。これらのアーティストは、役者の状態や心理学的な指導、原稿に書かれたような表面的なキャラクターには興味がなく、ステージの四面を壊して、観客に参加を扇動するようなことにも興味がなかった。これらのアーティストはパフォーマーであり、演出家であり、シナリオを書き、舞台デザイナーであり、コレオグラファーでもあった、その上彼等にとって、ステージは視覚的知覚のラボラトリーでもあった。パフォーマーはスぺースをマッピングするphysicalな乗り物(vehicle)であり、テキストであり、音楽のように時間のある視覚的イメージを意味するものだった。(しかしそうやすやすと結合できるわけはないが)それらはゆっくり微細に、もう一つの三次元絵画の中に溶解したようだ。観客の反応はいつも純粋なものであろう。見る者は後になって彼等が視覚的に経験した感覚や思想の連想を、書かれた言葉で知るのであった。パフォーマンスの実際的意味は、感覚を言葉の領域ではないところに永遠に釣り下げておくものかもしれない。これら、劇場傾向のパフォーマンスアーティストにとって、続いているインスピレーションは、美学とよびアートワールドに関わる感覚的研究からきているのにかかわらず。あるいは、アート社会の彼等の同輩によって紹介され、強い興味を持ったマテリアルからのこともある。同じ理由で、アバンギャルドな作曲家たちは彼等の経験的言語の文脈にしたがって作品を提出したいという思いが、結局、オルタナティブなスペースに向かって行った。彼等は、音楽の音というものを解明し、分析し、ばらばらにしてから偶然と日常の素材の“founded sounds”音と一体化させようとした。そして実際に聴くものには、それはrepetationとして始められた。アメリカではスティーブ・ライヒ、ラ・モンテ・ヤング、ロバート・アシュレイ、フィリップ・グラス、ポーリー・オリバロス、アルビン・ルーサー、テリー・ライリー、ジョアン・ラ・バーバラなどが経験音楽の幅広いベースを築き、70年の最後には“ニューミュージック”という洗練された世代が形成された。

 メディアというものが、幻想好きのパフォーマーたちによって数人のパフォーマーたちが競演する多層なものに変えられ、パフォーマンスの場がサウンドとイメージの巨大な感覚フィールドにされている時でさえ、他ではそのような引き延ばされた大望とは全く反対のことが行われていた。たとえば、マリア・アブラモヴィッチとウライ、ヴィト・アコンチ、アナ・メンディエタ、ヘルマン・ニッチ、バリー・エクスポート、マイク・パー、リンダ・モンターニ、ステラーク、ジーナ・パナたちは人間の心理というものに退却し、パフォーマンスはソロで、しばしば痛みに耐えるかのような風変わりなジェスチャーに集中したりして、見る者をがっかりさせたりなどしていた。霊媒師を呼び出したり、カタルシスなセラピー、儀式、行動分析など、この種のパフォーマンスは70年代を通じて実験され、アーティストを彼等自身の情動的歴史や社会的あるいは性のタブーを打ち壊す道具へと導かれた。アントン・アルトーの手稿『狂気の劇場』、ウィルヘルム・ライヒの『性革命』、R.D.レインの『引き裂かれた自己』などはしばしばアーティストに引用された。そうして、彼等のパブリックアクションは、社会的な正常という基準の深い意識の下に深く埋め込まれた生の興奮からのものである――パフォーマンスでも、精神健康上でも――その浄化の価値を実演する真の意味の研究として評価されていたようである。驚くまでもなく、強くマゾヒスティックに打ったり刺したりすることは、一種のナルシズムの段階であると、こうした思想からは結び付けられることになる。

 イギリスでは滑稽なものとおそろしいものとの間の振幅として、ギルバート&ジョージの生ける彫刻パフォーマンス『歌う彫刻』(1969)という作品がある。彼等はそろいのツイードのスーツをばっちり着こなし、フラナガン&アレンの歌『アーチの下で』がくり返しなるテープレコーダーの中、一人はステッキを持ち、もう一人は手袋をはめてマリオネットのような動きをしながら現れた。それから1972年のロンドンギャラリーでのスチュアート・ブリスレイの『そして今日のために……..何も』とタイトルされた作品は忘れがたいショッキングな作品であった。彼は毎日2時間2週間続けて、腐った肉を浮かべタ冷たい黒い水の入った浴槽に部分的に沈んで横たわったのだった。ブリスリーの他、ジョン・ラッタム、アリスター・マクレナン、ブライアン・カートリン、それからナイジェル・ロルフらは、ポーランド、オーストリア、ドイツなどでプロデュースされた、カタルシスティックで攻撃的な相互作用的パフォーマンスに共鳴的に参加した。彼等は個人的な不安を表わしたり、大きな社会的、政治的問題を解明する必要な手段の隠喩としてのアクションを提出した。この文脈のパフォーマンスはしばしば、パフォーマーと見る者との治癒的潜在力のある現代儀式と見られている。

 一方、まるで違った筋としては、女性のアーティスト、ローズ・ガラード、アナベル・ニコルソン、サリー・ポッター、ローズ・イングリッシュ、シルビア・ツラニック、ボビー・ベーカー、ロベルタ・グラハムらがいる。彼女たちは男たちの好対照として十分に心理分析的でかつ、しかし、それほど表現主義的ではなく、人を驚かすことを目的にはしてないタイプのパフォーマンスを創った。ビデオテープ、写真、映像、インスタレーション、そしてパフォーマンス、しばしばそのコンビネーションで、その母型を、強力なフェミニズムのイコンとして表出した。特に母と子に関する引用は、――西洋芸術の伝統である処女マリアとその子ではなく、実際の女性とその子どもとの関係に関する、情動的で性的で知的な領域への女性の強い興味とその表現――イギリス出身のアメリカ人スーザン・ヒラー、ティナ・ケーン、キャサリン・エルウス、マリー・ケリーらによるground-breakingプロジェクトに取り入れられた。高度に論理的で新しい心理分析的でありながら、ケリーの『Post Partum Document』(1973~9)、6年間の彼女の息子の成長についての写真と日記は、母と子の深い絆を前提にしたという点で実に挑発的に過激な作品だった。ヴィト・アコンチやアナ・メンディエタのパフォーマンスの美学的に近く、たとえば個人的にパフォーマンスされたイベントは、後でドキュメントの展示があった。ケリーが母子の問題をアバンギャルドの領域に強く持ち込んだその選択は、フェミニズムの文脈、あるいは独身白人女性の議論として高度な挑戦であり、それは20年経った今から見てもなお希有である。しかしフェミニズムアートは70年代のイギリスのアートワールドを圧倒する何ものかとは思われていなかった。何も経って、フェミニズムはアメリカでスケールの点で大きくなった。それらの女性アーティストたちの重要性はよく知られるところである。イギリスでは、80年代、90年代になってようやく彼等の仕事の影響が見られるようになる。

 1970年代のアメリカのアートワールドでのフェミニズムは、イギリスでの発達とは全く違い、急激な集結した叫びで始まった。それは、市民権運動、それはマルチン・ルーサー・キングらによって指導されたワシントンでの大行進、南部でのバスボイコットとfreedom rides、「黒は美しい」というスローガンと握りしめた拳骨を高くかかげた黒人のアイデンティティを宣言するブラック・パンサーの好戦的スピリットのあった激動の10年の後に続くものである。ますます洗練してくる戦略は、地下運動のリーダーたちによって、彼等の草の根運動を、アメリカの新聞のトップ記事に載せ、力のあるロビィストたちが変化をおこすくらいに成長した。似たような戦略は、アメリカ周辺の女性グループの支部幹部会議によって採用された。ジュディ・シカゴは1970年にカルフォルニアのフレスノ州立大学で初めてフェミニズムのアートワークショップを始めた。(それは1年後もっと視覚的な方法でカルフォルニア・インスティテュート・オブ・アートで再現された)また、それに影響されてミリヤノ・シャピロは共同的学生展覧会「ウィメンズハウス」(1972年)を行った。そしてたくさんの展覧会や会議がそれに続いて行われた。そしてアートワールドは全体的な内部抗争の最初のバトルに直面することになった。新しいボキャブラリー――クラフト、パターン、デコレーション、ジェンダー、アイデンティティ、コラボレーション――そして新しい修辞的表現や新しい主題が生まれた。パフォーマンスはとても個人的な問題を提出することができ、意識向上のためのセッションやグループディスカッションからアイデアを引き出すためのもっとも効果的な手段だった。そして、フェミニズムの議論を続けさす源の場となった。スザンヌ・レーシー、フェイス・ワルディング、シェリー・ガルグなどの人々が、レイプ、ホモセクシャル、家庭内虐待など、これらのディスカッションから発生した強い告発の感情的な主題をベースとした共同アクションという種目を作った。これらのワークで、これらは深刻な社会政治的性的問題を観客と直接語り合う能力を評価された。

 アメリカの東海岸では、60年代のジャドソンのコラボティヴな時代、70年代初期のグランドユニオン(偉大なる連合)が去り、エイドリアン・パイパー、ハンナ・ウルケ(左写真)、ジュリアナ・ヘイワードなどのようなソロパフォーマンスが行われるようになった。彼等の仕事は儀式色が少なく、カルフォルニアのアーティストたちよりフェミニズム的批評のあるような教訓的な要素に慎重であった。カルフォルニアではなおも、自意識の向上と当時流行の自伝的テーマ、この2つはともに一般的になってきていた。女性たちの、彼等の作品を吟味し直す気持ちは70年代の男性アーティストたちにも影響を与えた。これらアメリカの、枠にはめられ孤立していた女性たちのアイデンティティを定義しようとする感覚の女性アーティストは、彼女たちが彼女たちの存在を、多文化政治学のうちに感じた1980年中頃、少数派グループというもののモデルとなった。

 70年代末までにパフォーマンスアートというメディアで専門的に活動してきた多くのアーティストたちのほとんどが、成熟に向かって進もうとしていた。これは初期のパフォーマンスのpractice、たとえば20年代のダダイストやシュールレアリストたち、それから60年代のオルデンバーグやラウシェンバーグたちが、パフォーマンスを短期の試みとし、再び絵画やコラージュ、彫刻などに戻っていったのと対照をなす。70年代末にヨーロッパやアメリカの美術館は研究的展覧会にパフォーマンスを加えたり、パフォーマンスだけのフェスティバルを企画するようになっていた。専門のパフォーマンスアートの学科が一部の学校に出来、専門的にパフォーマンスのジャンルづけした熱心なマガジンも出て来た。メディアに強くアピールしたので、広範囲な新聞等の取材もだんだん増えた。パフォーマンスの上演場所のマネージメントの方法も結果的に変化した。今やアーティストは継続的なナイトステージに招待され、リハーサルの時間まで与えられる。それでもなお、パフォーマンスアートは予想不可能的「discipline」であり、次の世代、70年代末からの新進のメディアの世代は相当の様々な様相を帯びてくるのであった。

 インパクトのある60年代同様、当時のアメリカのアーティストたち、ロバート・ロンゴ、エリック・ボゴシアン、アン・マグヌソン、ジョン・ジェサルム、マイケル・スミスたちは、ロック・ロール、Bムービーズ、24時間TV、ファーストフードなどを持ち出してパフォーマンスをオルタナティブスペースとパンクの深夜ミュージッククラブとの間を往来させた。彼等の創り出した仕事は、ハードドライブと時代的先端感覚のセクシャリティを感じさせた。男たちはしばしば典型的なブラックジーンズと白いシャツを着て、時々白いネクタイをつけていて、女たちは中性的なパンツとブーツにセーターを着た。彼等はコンセプチュアルで知的なアートの枠組と、深いかかわりを持つことに興味がなかった。彼等は不協和音に満たされたロックの精神のリバイバルと、まばらにしか人の住まないあれ果てた都会のダウンタウンの魔力にひかれて、学生のようにいりびたった。どちらかと言うと彼らはアンディ・ウォーホルのハイアートとコマーシャルアートの混合、彼等を勇気づけたモデルとしてのウォーホル風のアートロックのアンダーワールドの方向に向かった。70年代の中頃、デビッド・ボウイ、ルー・リード、それからロキシーミュージックのメンバーたちの開拓したandrogynyは、パフォーマンスに、あるいは広い範囲でメディアに従事してきたアーティストの仕事に、非常に誘惑的なねじれを引き起こした。それはクラブパフォーマンスに再び活気を戻した。彼等のスタイルは、ブレーミングカルチャーファームのジャック・スミス、ジョン・バカロ、チャールズ・ドラムなど60年代から活躍している写真家たちのよってそのすばらしいポートレートで残されている。彼等の残した影響はずっと後になって、とても若いアーティストたちに、作品の強烈なスペクタル性となって、明白に現れた。*






5. 1980年代

 1981年、ローリー・アンダーソンは巨大なメディアの権力者、ワーナーブラザースから6枚のレコードを出し、ハイアートとポピュラーカルチャーの間のその見えざる分水嶺を渡る道筋をつけた。この後多くの他のアーティストたちがマスメディアを彼等の望ましく可能性のある乗り物(vehicle)として評価し始めた。アンダーソンはスタイルと実践の洗練された作品をメディアに発表し始めた。それまで、彼女ははめったにリハーサルすることもなかったし、くり返し同じことをすることのない、いわば荒っぽい、実験的な感覚の仕事だった。ところがパフォーマンスの上演は数日続いた。(ニューヨークのオーフェンシアターでの『United states Part2』)、アンダーソンは“多かれ少なかれ、私は毎晩同じであることに罪の意識を感じた。なぜならそれまで私はパフォーマンスのたびの変わったものだったから。”彼女のプロデュースした80年代の素晴らしいコンサートは、観客やアーティストのパフォーマンスのクオリティに対するこれまでの不満を急激に変化させた。しかしなお彼女はこのポピュラーとアートの世界にまたがる未踏の領域にがっかりするような弱点とまだまだ試みるべき点とがあると気付いた。“私はなおもひとりのアーティストとして考える”。彼女はかつて、いかに音楽業界が彼女に影響しているかの質問にそのように答えた。

 メディアが活気をおびていたパフォーマンスは、ハイアートに、ポピュラー文化の影響に加えようと、モデルとして、メインストリームの劇場、漫談やトークショーなどのテレビやキャバレーで行われていたもののプロフェッショナルな仕上がりを、取り入れた。

 オーストラリアのニッチェル・ルークとその仲間チ・チ・チ(Tsch Tsch Tsch)は、その国の大衆娯楽とマスイディオム(慣用句)を使い、その枠を飛び越えた。一方、イギリスのステファン・テイラーとウッド・ローそしてミランダ・パインはコマーシャルなエンターテイメントへの一般的傾向に反発して、彼ら自身をギルバート&ジョージの生ける彫刻によって確立された血統の立場を主張する“生ける絵画”にした。

 アメリカでは、ひとり語りは初め、レニー・ブルースのスタイルによる典型的な男性のライブのポートレート語りの方法であった、しかしそれはまだコンテンポラリーの初期ソロリスト、リリー・トムリン、ルース・ドゥラパー、ブラザー・チュードアなどを思い起こすものだった。この形態はエリック・ボコシアンが、ポピュラーメディアからのイメージの引用を作品化していたロンゴ、シンディ・シャーマン、リチャード・プリンスらのような若い同輩のメディア世代の方法に応じるように、70年台に発展させ、アートのコンテキストで作品化し、枠組化し、再整理した。同じ頃、スパルディング・グレイは1975年、リッツ・レコンプトとウースターグループとの共同作業のプロジェクト3部作において、告白調のモノローグを始めた。1979年には『Age14 ヘのセックスと死』という初めてのイブニングサイズのソロ・パフォーマンスを行った。アンダーソン同様、彼等の作品はスケールの違いにも関わらず、親しみのある物語として注目され、多くのパフォーマーに影響を与え、このひとり語りの形式を始めるアーティストが増え出した。それから20年経った今も、この形式は新しいアーティストを魅了し続けて、ロングランになる可能性のある、アメリカのパフォーマンス史上の得意なジャンルである。それは若いアーティストたちをひどく駆り立てた、なぜなら、その要素はとてもベーシックであるからだ――ひとりだけのパフォーマーであり、何の傾向も無くても、個人的な経験を元にした素材で描くことが出来、制作費も少なくて済む。それはその前提からして、観客に解りやすい。モノローグはそれ以来、様々なところで発生した。オーストラリアではウイリアム・ヤング、ク=ンバ・ジャリ、イギリスではサブジド・サムラ、マヤ・チョードリーなど、つまりそれらは彼等をはぐくんだ土壌や人々や時代の、鮮明なる、文字どおりその人の背景を描いたものなのだった。

 この次の10年間、一見して無害な、エンターテイメントでさえあるパフォーマンスが目立っていたが、それはたぶん主流のメディアが気楽なものばかり集中して選んでいたからだ。それとは対照的に、多くのアーティストに政治的な社会的問題や、エイズからホームレス、民族問題やジェンダー差別の問題を社会化するために、パフォーマンスは使われてもいた。草の根政治運動のメカニズムがほとんど消えかかっているような頃、デビッド・ヴォイナロヴィッチ、カレン・フェンレイ、ティム・ミラー、ホリー・ヒュージ、ACT-UPのメンバーたちや、グラン・フィリーたちによってパフォーマンスは洗練され、忍耐強くもなった。1969年のニューヨークでのストーンウォール暴動は、差別に対するホモセクシャルの抗議運動の最初のものの一つで、それは後にACT-UP(1987年に設立したAids Coalition to Unleash Power)のモデルとなった。ACT-UPはAIDSの社会認知を高めるための基本活動であった。アレン・ギンズバーグの『Howl』(1956)は、ホモセクシャルの発言のための公的発憤の始まりとなった。そして約30年後ホーリー・ヒュージの『終末なき世界』(1989)は、”家族の価値”を脅かして、ワシントンでの検閲もどきの事件の闘争の引き金が引かれ、結果、連邦基金の“National Endowment for the Art”の規模が急速に縮小されるに至った。アンダーソン、ボゴシアン、フィンレイ、マグヌソンなどを含む多くのアーティストたちに対して、“National Endowment for the Art”はこのように保守的な鞭打ちを食らわせた。ルー・リードの叙情的な歌『君の両親とsexを』は、高所からの偏見にno-holds -barred仕返しをした。

 ヨーロッパの政治的転換、得に1989年のベルリンの壁崩壊や全体主義的共産主義の倒壊は、東欧のアーティストの最初の波、バレリー・ジャーロヴィン、リムマ・ジャーロビナ、イリヤ・カバコフ、それから80年代初期に国外に出かけていたKolmar and Melamudなどの、知られざる20年が明らかにされた。ブラックマーケット(左写真)は、東と西ヨーロッパにまたがるパフォーマーの緩いネットワークとして1985年に設立された。彼等のマテリアルは政治の、あるいは西ヨーロッパのパフォーマンスアーティストたち、たとえばレベッカ・ホルンなどの、また文学的テキスト、たとえばジョルジュ・バタイユなどのテキストの隠喩的引用による、どこかフルクサスに似たアクションの直系であることを示している。

 同じ頃、興奮は、ダンスの世界で、非常に創意に富むコレオグラファーらによって、パフォーマンスアートの深い影響の元に発生していた。ドイツのピナ・バウシェ、ベルギーのアンナ・テレサ・デ・キースメーカー、ヴィム・バンデキイブス、イギリスのリイダ・ニューソンなどがそれに含まれる。“ダンスシアター”はステージものでは視覚的に最も興味深い発展を遂げたものの一つで、素晴らしくトレーニングされたオブジェとしての身体の概念をベースに、大胆にphysicalな方法で、現代的な葛藤と感性の心理をよく表わしている。積極的な国家的プログラム、特にフランスではミッテラン大統領、イギリスではBBC放送や「カメラのためのダンス」シリーズを行ったアート・カウンシルらに支えられて、ダンスパフォーマンスは1980年代、90年代に盛んになった。90年代のイギリスのアート「ルネッサンス」――それは1988年に始まり、ロンドンのゴールドスミスカレッジから出た若いアーティストの波――もまた、パフォーマンスのアーティストたちの新しいグループをプロデュースした。哲学的で文学的に60年代以来のその全てのイギリスのパフォーマンスのそのすばらしい要素――「フリンジ(周辺)」シアター、ストレートシアター、agit-pop、ライブアート、タイムベースドメディア、メディアシアター、ダンスシアターなど――を編纂し、同輩の仕事に影響しあいながら、これらのアーティストたちはいくつかのとてもいきいきした、思想的刺激のあるパフォーマンスフェスティバルやシンポジアを、国境を超えた様々な場所で行った。イギリスでは、毎年場所を変えて行われるNational Review of Live artによって世界の周辺からのパフォーマンスの手形交換所に変容した。他にも毎年ノッテンガムで開かれるNOWfestivalなどがあり、ロンドンのICA(Institute of Contemporary Art)は展覧会、パフォーマンス、レクチャーなどを年中 アートプログラムとして行っている。それらは、ニューキャッスルのローカスプラスや、オックスフォードのラボラトリーのように組織化されている。ハイブリッド、ライブアート、パフォーマンスリサーチのようなマガジンは、すべてのジャンルのパフォーマンスをカバーしている。また多くの大学、たとえばダートマンス、カーディフ、リーセスター地方のデ・モントフォードではパフォーマンスに関する学部がある。そこでは、歴史や現代的文脈にとってのアカデミックな議論の素材として、フォーラムを提供している。さらに90年代イギリスでのライブアートの著しく大きな興味は、アカデミックからポピュラーシーンにも広がり、たとえばロンドンのイーストエンド、ノッテンガムのナイトクラブ、グラスゴーのガーネットヒルでのライブパフォーマンスシーンでは、60年代や70年代初期の音楽やアートワールドの連帯的時代の回想がブームになっている。*





6. 1990年代以降

 このように90年代はパフォーマンスが以前より広く受け入れられたにも関わらず、相変わらず、一般的ではないし、市場性もほとんどない。映画や音楽、テレビの中で主流になったわずかな人達――ローリー・アンダーソンやスパルディング・アレイ、エリック・ボゴシアン、アン・マグヌソンなど――は、アーティストたちの期待する革新的で過激な推進力を持ちながら、多くの支持者を維持しなければならないという矛盾をかかえている。メディアは、「現在性(presentness)」――観客のリアルタイムの存在(presence)のシャープな反映の満足を要求する。その時代の政治上、芸術上、社会変遷に対応するその能力は、なおも最も価値のあるものの一つなのである。

 歴史的にみて、パフォーマンスアートは、秩序(discipline)とジェンダーの間の、私的と公的の間の、日常生活とアートの間の、境界を変え、破り、ルールなしを貫いたメディアであり続けた。そのプロセスで、それは他のジャンル――イベントにとっての建築物、イメージにとっての劇場、パフォーマンスにとっての写真――に、力を与え、魅力を引き出した。事実、アナーキックなその方法はいつもアバンギャルドの最前線であり続けた。しかし、テクノロジーは、一般民衆のためのアバンギャルドを創った。それは、ウェブサイト、ジネス、バーチャルリアリティなど、陽気さと新人探索者のエネルギーにより明解なパスウェイを移動する、グローバルな若さによって切り開かれたコンピューターの大衆社会なのでである。しばらく、アーティストたちはそれが現代化する変化によって、圧倒された。しかし、今では多くの――ゲーリー・ヒル、ビル・ビオラ、ローリー・アンダーソン、ダグラス・ゴードン、マシュウ・バーニーらなど――彼等は、最先端のテクノロジーの可能性を大いに利用したが、同時にsubsumingの危機にいつでもさらされているそのハードウエアに、新しいヒューマニズムと文化的価値を注ぎ込もうとする目的も持った。本質的にパフォーマンスのメディアはいつも革新されてきた。だからパフォーマンスアーティストは今、新しいテクノロジーを彼等のアバンギャルドな傾向に取り入れないわけにはいかない。また、同様に事実、確かに新しいテクノロジーを使った新しいパフォーマンスは、必然的にその単純さを無視しつつうまく使いこなし、予想もしないような方法で、その潜在力を引き出すだろう。

 アーティストたちはすべてのタイプのコンピューターのユーザー同様、このペースの速い新しい文化の周縁を舞っている、ちょうど未来派がこの世紀の初めにそうしたように。その時彼らは、彼等の仕事に機械の美学を取り入れようとした。未来派はスピードの愛を祝福した。「ダイナミックなセンセーションは永遠をつくった。」支持者たちは、流行のコミュニケーションネットワークの加速するスピードを経験することに有頂天になるだろう。ハイ・テクのユーザーたちは、実際に出かけること無しに言葉やイメージを通した未来へ自ら飛び出すことに熱心である。興味深いことにアーティストもコンピューターユーザーも、彼等のマテリアルに強くコンセプチュアルなアプローチを持つことに、とても満足している。オブジェを創る必要性をなくし、代わりにアイデアそのものの優雅さや気分の良さを楽しんでいる。

 未来派の宣言文に著された現代世界は、爆発的にすべてを包括する明察がひどく不足していたが、90年代後半のアートは徐々に再定義された美学、一気に広がった国際的なメディア文化の様々、未来に向けてまるで毎日最新のテクノロジーがコンピュータースクリーンから生産ラインを直接動かして生産しているような文化、感覚が満ち満ちてている。非常に濃いデジタル図像は――コラージュされ、継ぎ木され、再イメージ化された――テクノミュージックや集められたサウンドの巨大なストック、アーティストのインスタレーションとしてのCD、それからマルチメディア、コンサートなどを重ねて以前には決して見ることのない、洗練されたピクチャーメーキングのレベルを創り出した。ニューメディアの能力とその使用はその徹底した現代的定義では“あらゆるアートワーク(Gesamt kunstwerk)と言うにふさわしかった。ダグラス・ゴードン、ジリアン・ウエアリング、イネス・バン・ラムスウィード、クリスチアン・マークレイ、マリコ・モリらはイメージと音の世界を構成した。フィルム、インスタレーション、写真、音楽、パフォーマンスなどを使った作品は、結果、2次元あるいは3次元の作品となった。それは催眠術のように狡猾で、精巧なものだ。流行のオブセッションである、セクシャリティ、暴力、身体の機能、ファッション、映画、音楽、メディアに強く刺激されたGordon and Van Lamswwrdeのようなアーティストの作品は、観客にバーチャルに触れ、包み込むといった方法のパフォーマンスである。なお、その上に、これらのアーティスト、クロード・ワンプラー、パティ・チャン、バネッサ・ビークロフトたちののようなパフォーマーとの間には、柔軟性と同時に、伝統的な範疇家化に対する挑発がある。彼等のライブのマテリアルは、彼等の同輩の平面作品と同じように、色彩的にビビッドで、繊細なアートディレクションがなされ、強迫的である。ストリートワイズのウィクリフェ・ジーンのように生意気で、叙情的で、アイデンティティや社会的な様々なことをマイク・リー・フイルムの裸の革命のように探究し、また時々パゾリーニやFassbinder movieは拘束のないセクシャリティの回想に浸されたが、90年代後半のパフォーマンスはアーティストやそのアイデアにアクティブに直面するはずの、観客を参加させるようなライブ・アートが少なくなった。パフォーマンスアートは、かつてそうであったように、予言不可能な、本当に深い意味での挑発的なものである。*





7. 記録写真とパフォーマンスアート

 この本は、20世紀後半に、アーティストが情熱を感じ、熱中した生々しいマテリアルについての、あるいは、それを表現したハイブリッドな視覚的ストーリーである。初めに述べておきたいことは、このような本はそれらがそこにまさにある経験――魅了され、効果を持ったり、退屈だったり、人の心を虜にしたり、いらだたされたり、刺激されたりの、――実際の現在性を主張するメディアの本質に、逆らい矛盾してさえいるように見えることだろう。しかし過去にはアーティストはアクションのおこったことの証拠として「ドキュメンテーション」をかなり使った。テキストや写真、フィルム、スチールそしてパフォーマンスの他の全ての資料をよくみると、そのことは最初からライブ・アートを創るまさにその理由に矛盾しているようのに見える。それはある部分では伝統的なobject-makingやマーケティングへのアートの興味を擁護してさえいる。そのしばしば安直にもなる写真はいったい一回きりのライブの経験のスリルを伝えることができるのだろうか?そのような記録は、その性格に矛盾してはいないだろうか?

 この本のために写真を選ぶことで、深い意味でこの問いに直面し、それに答えるものになったことを私は望む。過ぎ去ったライブイベントの、この印刷された残余は、時代の美学感覚――70年代のコンセプチュアリズムの平板な白黒写真、80年代のより注意深くステージ化されたメディア指向(media-conscious)のカラースライド――を呼び覚ますだけではない。ニ面のページを広げてみせるように、それらは私たちの20世紀後半の、裸体(nudity)、儀式、文化的アイデンティティなど、現実の写真のはるかに離れた所のものへ行き着く、時代の関心を含んでもいるのである。クラシックな絵画のイコノグラフィーや視覚的、空間的コンポジションと同様、心理学的意図や社会的内容についての情報も担って、写真は、消すことのできないイメージのシリーズを創り続けるアーティストの可能性を明らかにする。事実私の研究では、多くのアーティストが初めからそのつもりなのが明白だった。ヨゼフ・ボイスは彼のイベントの写真がなおもイコン的価値があることを理解していた。疑いも無く、彼の独自のイメージ、コヨーテと小さい部屋にいてブランケットにくるまることが、広く世界に反響をもたらし、彼の人と動物についての示したかったメッセージがイベントが行われたずっと後にも伝えられるということを、彼はわかっていたのである。イブ・クラインがビルの2階から虚空に飛び込んだ写真は、2枚の写真を写真家のハリー・シャンクが再構成したものである。1枚目の写真はトランポリン上の彼を撮り、2枚目は誰もいない通りを撮り、それらを暗室でコラージュした。クラインが自分の危険にさらし、大胆な離れ業をしたかに見える出来上がった写真は、同世代のアーティストたちに強い影響をあたえたと思われる。彼がこのアクションで(カメラとフィルムを使い)とても特別なイメージを創り、偉大なほど極端な域に達した事実は、クラインのパフォーマンスのもつ基本的要素同様、彼の写真への抜け目ない理解をも明らかにする。それは彼の仕事のキーとなる信条の「非物質性(immateriality)」を具体的に明らかにする彼の方法であった。それはミハイル・バフーチンの哲学の重要ポイント、それは何が今であり、今の後が何であるかの違いを象徴的に表現している。事実、多くの人は、彼が直接行ったものより、再生産されたパフォーマンスを「知る」のである。必然的に印刷されたページを読み、見る経験は、ライブが展開した何かを見ることとは違っている。読み手は一回性のパフォーマンスのイメージを彼等の見たいように眺める、彼等のイメージしたライブパフォーマンスをくり返し甦らそうとするかのように。アーティストやイベントの記述されたものには、indicating sequence and duration、実際の上演の時わかることよりも、ずっとたくさんのパフォーマンスについての説明がある。パフォーマンスの核心は持続した時間の要素にある。しかし、経験した時と記憶の時間、あるいはイメージを反芻する時間、その2つの間には基本的な矛盾はない。

 各章につけるたくさんの視覚的情報を選ぶ作業は、この本の構成上、実に厳しい仕事だった。時間軸的、地域的調査は不可能なくらい厄介で、それらパラレルな歴史を追うことは、ひどくめんどうな仕事であった。むしろ、テーマ別に作品を関連づけることでそれらを決定した――感覚や動機、傾向の関係を照らし合わせによって――しかし、これらのカテゴリーは絶対的なものではない、一つのアーティストの仕事は、一つのテーマの一つのバリエーションとして他の人に保持され続けられることもあるし、また、類似は、むしろ、その違いやオリジナリティを明らかにする。言うまでもなく、これらのアーティストの多くの作品は幾つかのテーマにまたがっている。たとえばマリーナ・アブラモビッチの仕事はフェミニズム、儀式、文化アイデンティティなどに、ビル・T・ジョージの場合は政治、ダンス、メディアに。構造や理解のためにこれらのアーティストは、彼等が形式の歴史に、あるいは彼等をよく理解した他のアーティストに与えた影響について、章ごとに、検討されている。

 美術史の物語舞台を磨き上げるこのプロセスは、月並みな本をつくるというより、ドキュメントをプランすることに近い。本のデザイナーの手で(あるいは目で)のイメージの並列は、それぞれの写真にのがれようもなく焼きつけられたムーブメントの集結を補強する。カメラワークはいつも、個人的にそのアーティストを支持している周りの中の写真家によって、もっぱらなされている。それは時に、彼等自身の動機や情熱が続く限り、数10年以上も続けられる。まれに職業的に頼まれ、ほんの時々報酬を得ることもある。(アーティストたち自身はパフォーマンスで収入をえることはほとんどない)この写真家たちの活動が、パフォーマンスの歴史だともいえるのである。それぞれがアーティストの仕事に特別な見方をもち、彼等はしばしば直列つなぎになって、ともに活動するような親しい環境の中にいる。バベット・マンゴルテについて言えば、彼女はフィルムメーカーで写真家であり、その記録写真は70年代のパフォーマンスにおいての感覚の私たちの理解に決定的なものを与えた。彼女の目的は作品の時間上の連続性をみせるだけでなく、しばしば空間や観客の様子もとらえることだった。「私は写真にイベントの進行を正確に記述することを望んだ」と彼女は言った。「しかしアーティストがドキュメンテーションにビデオを使い始めた時、…彼等は写真にパブリシティ目的のスタジオで撮るようなクオリティを求めるようになった」マンゴルテは寂し気に付け加えた。「私の役割は終わったみたい。」ポーラ・コートはニューヨークのThe kitchenで70年代末の彼女の友人の写真を撮り始めた。そこで彼女はその最盛期を記録し、彼女の親しいアーティストたちを撮り続けている。「アーティストに近づくことは、すべてのレベルで知的に感情的にとても豊かになることである。それは、写真を撮ること以上の体験である。作品の領域に入りこみ、写真によってそれを甦らす時、彼等の作品について考えようとするだろう。」それは素晴らしい集中で、学び続けるプロセスである。彼女の言う所によると、彼女にとってそのプロセスには終わりはない。「いくつかの点でこれらのアーティストは私の先生である。私は仕事をともにした人々から多大な知識を得ている」とコートは付け加えた。ドナ・アン・マカダム、ハリー・シャンク、ロバート・マッケロイ、ヒューゴ・グレンデニングらはそれぞれ、彼等のカメラによって選ばれたユニークなアーティストの側面を、様々な方法で私たちに知らせてくれる。彼等は私たちに、アーティストのマテリアルの重要性を理解する鍵を与えている。(写真はレベッカ・ホルン)

 フォトアルバムとして、この本の写真は記憶を呼び覚ます引き金である。ローリー・アンダーソンが『ユナイテッドステイツ』の全てを1983年に初演した時に、そこに存在した人々のために、それらはドラマのような連続場面をひもとくそのパフォーマンスそのもの、小柄なアンダーソンの後にdissolvingしたオペラサイズのプロジェクションがあり彼女の平板な歌声「O,Superman」がスライドで最盛されているものだけでなく、ネイビィブルーの冬空にキラキラ光る夜のニューヨークのスカイライン、それはブルックリン橋から見える、そうしたものも思い出させてくれるのである。また、わたしたちはそこにいなくても、写真は力強くイマジネーションをかきたてる。死のような静寂に入るアナ・メンディエタの写真は、彼女が自らにかぶせた泥が「におい」、私たち見る者は目を閉じて「パフォーマンス」の中の彼女の深く個人的な「思想」に統一される。それぞれの写真は時間の残余を運ぶ。それぞれは過ぎ去った存在、矢のように消えた現実を形にする方法である。パフォーマンスそのもののようにこれらの写真は、私たちの体験をもっと深く感じることを促しているのである。
 

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