
2015年11月11日から15日まで、インドネシアのソロ(スルカルタ)で、行われたフェスティバルUndisclosed Territory #9に参加した。ソロは、ジャワ島の真ん中あたり、かつて王国の中心であり、城址もある。パフォーマンスアートの会場は、このフェステイバルの企画者であるアーティストのメラティ・スリオダルモの自宅とその庭である。その庭はちょっとした日本の小学校の校庭くらいの広さある。スリオダルモ家は、おそらく結構な名士の一族であろう。私たちアーティストはその住宅地の一部ある、ゲストハウスに泊まった。そして、その周りは、農業をしている村の人たちが住んでいる。ゆったりした農村エリアだ。ただ、わかりやすく貧富の差を感じた。そして、そこでグローバリズムの典型である美術ベースのパフォーマンスを行う必要性や、どんな観客が集まるのかを、私は考えさせられた。
そこで、メラティ・スリオダルモに、私のパフォーマンスへの村人の参加を依頼した。彼女は「村人は恥ずかしがり屋で歌わないし、報酬を要求するだろう」と言った。彼女は、代わりに地元の演劇の女性たちを招くことを提案した。彼らは喜んで参加してくれた。我々は話しあった。彼らは明るく、色々と提案してくれた。彼らは素敵な衣装を貸してくれたので、私も彼らの仲間だ。
パフォーマンスは、11月15日の日暮れどきに行われた。女性たちは私が期待していたよりもずっと芝居がかっていて正直私は戸惑ったが、実際は、それはむしろサプライズだろう。テーブルには地元でみんなが知っているようなお菓子や果物を並べた。歌も寸劇も全て即興的に行われた。そして、歌いたい人は、どんどん飛び入りができる。観客の多くは楽しそうだった。海外アーティストも地元の人たちも混ざってひと時を過ごした。 一方私は、全く違ったトーンで存在し、彼らの後ろや横で鍬を振るい、ケムニング(オレンジジャスミン)4株を植えていた。
このイメージには、マネの「草上の昼食」を私は意識している。「草上の昼食」の手前でピクニック?をしている人たちの背景に、うっすら描かれている謎の女性の姿が私だ。また、私は別の東南アジアでのフェスティバルでのレジデンスで、アーティストたちが日中から宴会をして騒いでいる横で、建築業者がコツコツ仕事をしているのに、違和感を感じたことを思い出していた。ここでは私は、歌って遊んでいる人々の周りで、鍬をふるっていたかった。
以降は、このパフォーマンスの直後に私が書いた文章からの引用 「歌を歌うことは最も基本的な人間の感情に関わる。あらゆる文化に歌や詩がある。そして歌うことは呼吸を通じて植物と繋がっている。植物は酸素を与え、私たちは二酸化炭素を与える。それは循環だ。詩は人間の息吹でなければならない。植えるという行為がその関係を強調できると思った。」












