往復する拳 Fists going back and forth vol.5 <Naturalization>

Date : 2025-06-15 12:00~16:00
venue: ギャラリー無量、砺波市、富山県 outside/inside of Gallery Muryo, Toyama, Japan
project : Durational Performance Project Tokyo (DPPT)

Durational Performance Project Tokyo (DPPT)の当時メンバーだった石田高大さんの企画。会場は、彼の住む富山市の南西の山間部に近い砺波市の民家を改造したギャラリーである。DPPTは、Durational Performanceを研究し実践するコレクティブで、IPAMIAのプロジェクトから期間限定で生まれた。2024年1月から勉強会から始めて、イベントはこれで7回目になる。私は、富山には行くのは始めてなので、その土地との出会いを作品の内容に入れたかった。そこでNaturalization (帰化)というコンセプトを掲げ、「どこにそれが生まれ、どこで生きていくのか」という問いを投げかけてみた。企画した石田さんにとって、富山で生まれ育ち、大学から東京に出て、その後、富山に戻りながらも、芸術活動のためにたびたび東京に出かけていた彼の今のライフスタイルの気苦労を、私自身が感じていたというのもある。

この回は、Durational Performanceといっても4時間であり、また、他の3人のアーティストとの同時多発ということもあり、観客もワイワイ過ごしていたら、なんとなく終わる軽めの時間設定。

私は、自宅(埼玉県川越市)の近くで買った赤い花の鉢植えを携えて新幹線に乗り富山に向かった。着くとすぐにギャラリーの奥にあった四角いテーブルにそれの包みを開いて置き、次にギャラリーの周りの田んぼの畦道を歩き、車道に出る前の水場のあたりを2つ目の場所とした。その2点に「現地の田んぼの石」と「持って来た鉢植え」と「ギャラリーの天井からの一抱えの空気」という3点の「もの」を順に移動させるというパフォーマンス。ギャラリーは田んぼの中にある民家をこぎれいにリノベされた場所であり、主に現代アートを扱うという。私には、その「おされ」というべきスペースの佇まいをやっつける必要があった。最初にギャラリー内の空間に青いマスキングテープを何本か渡し、ある種の澱みのような引っ掛かりを加えた。これがパフォーマンスの始まり。

この日のパフォーマンスは、ライターの平岡さんがテキストにしてくださっているので、それらを引用しながら紹介したい。一部を省略させていただいているので、全文はこちら →note

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『道はいまや私たちの運命と彼らの運命とをつなぐものになった【第1部】― 《往復する拳 Fists going back and forth vol.5〈Naturalization〉》によせて』 平岡希望

「この豪州原産の、陰翳ゆたかな灰褐色の幹を持った耐塩性の高木は、後ろ足で立つ大きな獣をおもわせる不思議なシルエットをいつも夕闇に際立たせながら汀に佇み、季節が来れば海へと種をこぼし、その種子は波に乗りうねりに運ばれて大洋を縦横に渡っていった。どこで聴くモクマオウの風に向けた咆哮にも、流離の涯てに漂着した現在の土をおのが住み処と定めて生きるものの決然たる意思が、かすかな流謫の悲嘆とともに、深く宿っていた。」【今福龍太『群島-世界論[パルティータⅡ]』水声社, p.435】

 真紅の花を火炎のごとくまとったクライミングサンパラソル。白い鉢植えという刳り舟ごと抱えられたそのつる性植物が、時にマスキングテープの波をかぶりながらも「うねりに運ばれて」いくここは「富山県砺波市の散居村風景の中にひっそりと奥まって佇んで」いる孤島めいた「ギャラリー無量」だ。古民家を改装したという飴色の床には、さざなみ(あるいは波紋をしばし刻んだ汀)のごとく木目が走っており、そのほぼ中央で海松茶がかった柱が4本、海食で削られた岩みたいに奥へ奥へと屹立している。

 蜘蛛の巣が薄く張る窓辺の梁に留められたマスキングテープは、手前から2本目の “海食岩” をかすめるように伸び、その脇では北山聖子さんが《Unfolding / Folding》と題したとおり、白いテーブルクロスをまどろむ蝶のごとく身体の前でゆっくりと開いては閉じている。そしてゆるやかな下降線を描きながら、柱の先のキッチンスペース近くの真壁へとテープをわたした山岡さんの足下で、ギャラリー裏手から持ってきたらしい1本の薪を、赤子のように抱えて座っているのは石田高大さんだ。そんな彼が、ギャラリースペースに隣り合う座敷、その近くへ据えた台座の下の方にも2本目のテープの一端が貼りつけられていて、それは先ほどテープがかすめた柱から、やはり空間を袈裟切りにしている。台座脇の、座敷と板の間とを隔てる壁沿いの柱に観客の1人がもたれて押さえているのは、そこから3本目のテープが伸びているからで、山岡さんは台座の斜め前あたりに椅子を置くと、その脚にテープのもう一端を貼りつけた。

撮影・下田晃平

ギャラリーの奥から植木鉢を運び始めたのは、

「山岡はパフォーマンスアートを1991年、29歳の時に始めました。東京上野の谷中墓地の中の小さな公園で、即興ダンスの稽古をしていた2人の若者たちを見ているうちに、参加したくなったのです。(……)そして、そのうちに、紙テープを使って、空間のドゥローイングも試みました。同じ空間でダンサーたちはその間を通り抜けたり、テープに寄りかかったり、破り落としたり、と色々な遊びをみつけて、関わりをもちました。彼らの動きで、その紙テープによるドゥローイングは変化しました。」【Background 本website内の文章より】

3本のテープによる「空間ドゥローイング」が描かれてからのことだ。紙テープを用いたパフォーマンスとしては《Paper Ribbon》や《Cuprice カプリース》(ともに1992年)があるようだが、空間を切断しつつ結びつける所作として捉えれば、同時期の《Topaz トパーズ》にも通ずるのではないか【5】。そしてシンガポール川の対岸へ架けられた、数珠繋ぎになった小さな紙舟の “橋” は、横断歩道で一列に寝転がった人たちの姿と重なって、2007年から09年頃にかけて集中的に行われた《Come with Me》や《Best Place to Sleep》【6】では、参加者や自らの身体を公共空間へ配置していったようだ。街に異物・障害物として束の間現れた身体から、

「歩行は、だれかに追いかけられたり、追いかけさせたりしながら、環境を動的に組織化し、一連の交話的なトポスの数々をつくりだしてゆく。(……)こうした歩行が、だれかに何かを伝えようと声をかけるのに先立って、あるいはそれと同時に、『もし、もし!』と呼びかわしあうこだまの迷宮のなか、跳びはねたり、四つ足で歩いたり、ある時にはゆっくりと、またある時には足どり軽く、踊ったり、散歩したりしていても不思議はないはずだ。」【ミシェル・ド・セルトー 著, 山田登世子 訳『日常的実践のポイエティーク』ちくま学芸文庫, pp.248-249】

(…省略…)

足下から少しだけ揺るがされていたのかもしれなくて、植木鉢を抱え、ギャラリーから外へ出ていこうとする山岡さんを追う私(たち)の足どりもまた軽かった。

 のれんをくぐると、空一面にかかった雲が右手の山の端にそっと押し上げられていて、雲海とは見おろすものだが、だとしたらここは海底なのかもしれない。乳白色の海の下には緑の海のごとく田んぼが広がっていて、その水鏡に気まぐれな波紋を描くこぬか雨のように、右手の蔵では今も山﨑千尋さんが、杯に注がれた琥珀色の液面を静かに波立たせているのだろう。彼の眼前に残された、もうひとつのグラスもウイスキーで満たされていて、ついさっき立ち去った誰かの気配を留めるようにカラン、カランと氷【9】がその中で回り続けているはずだが、背中に隠されここからは見えない。 

再び山岡さんへ視線を向ければ、一見酔歩のような足どりには法則性があるようで、①肩幅くらいに右足を広げ、②左足を右足の1歩分前に進めた。そして③右足を左足の前へと運んで、綱渡りめいたその動きを私もよろめきつつ真似たのだが、

「中国での禹歩[うほ]は、旅人あるいは患者本人が行うものであった。対して、日本においては、陰陽師が先導し、対象者は陰陽師の足跡をなぞっていくことで呪術を完成させていた。」【深澤瞳「禹歩・反閇から身固めへ ―― 日本陰陽道展開の一端として ――」『大妻国文 第43号 二〇一二年三月』大妻女子大学国文学会, p.41】

そこから④肩幅くらいの距離で左足を右足と並べて一呼吸おき、⑤右足、⑥左足、⑦右足と、すたすた歩を進める(そしてまた①へ戻り、時に鏡像のごとく反転する)その足どりは、禹歩と呼ばれる「中国に淵源を持つ」「呪術的な意味を備えた歩行法」を基にしていたらしい。禹歩は「旅の安全祈願」であり「仙人になるための薬草の入手法」でもあったようだが、

「行商販売するための良薬を製薬するには、薬の材料となる薬種が大量に必要であった。富山は決して薬草が多く採取できる土地ではなかったし、薬草栽培も大規模には行われていなかった。よって主として大坂の薬種会所を通して吟味されたものを、多くは海路で運搬したとみられる。【『国指定重要有形民俗文化財 富山の売薬道具』富山市売薬資料館, p.3】

「Durational Performance Camp in Toyama『タイム・トラベル – TIME TRAVEL – 』」の一環として行われた本作においても、旅や運搬は重要なテーマであった。ぬかるんだあぜ道の先へ運ばれていく植木鉢は、山岡さんとともに埼玉県川越市からここ富山までやってきたものであって、彼女はギャラリーから数十メートルほど離れた用水路前にしゃがみこむと、持参したスコップで地面を掘り始めた。そしてクライミングサンパラソルを鉢から出すと、そこに植えなおす。

「禹歩」の歩きをしているシーン 撮影:喜納洋平

「あるとき、私の家の裏で私の世界の小さな物やちっぽけな生き物を探していて、垣根の板に穴を一つ見つけた。(……)突然、一本の手が現れた。私と同じ年ごろの男の子の小さな手だった。私が近寄ったときには、手がなくて、その場所にちっぽけな白い羊[の玩具]があった。(……)私は自分の家へ引き返し、代わりの贈り物をもって戻ってくると、それを同じ場所に置いておいた。それは開きかけた松かさで、私が大好きなものだった。」【今福龍太『群島-世界論[パルティータⅡ]』水声社, p.57】

 果実でいえばパパイヤぐらいか、20センチくらいの石を拾い上げてあぜを引き返す山岡さんが近年取り組んでいる《往復する拳》シリーズもまた、上のような「沈黙交易」なのではないか。本連作において、主役はむしろ石や植物といった運搬される物のほうで、砂浜へそれらを漂着させる波のように、山岡さんは淡々と行き来を続ける。その “果実” がパパイヤからザボンへと量感を増したのは、ちょうど関守石のごとくあぜの真ん中に鎮座していた石と持ち替えたからだ。“ザボン石” の代わりに “パパイヤ石” が同じ場所に置かれ、あぜ道から舗装路へと切り替わるところに今度はザボン石を置く。山岡さんは、持ち替えたスイカくらいの石をギャラリーへゆっくりと運び、最奥の、先ほどまで植木鉢が載せられていたテーブルの上へその “スイカ石” を据えた。

撮影・下田晃平
撮影・下田晃平

(…省略…)

こうした往還を俯瞰して眺めたとき、それぞれの石は個別の存在というよりも、岩が砕かれ、割れて、石となり、削られ、磨かれ、砂となり、また固まって岩となる果てしない循環の象徴にも見えて、

「ぼくの目の前にいるハトは、数千万年の延々たる時空を飛ぶ永遠のハトの代表にすぎない。ハトの灰色の輪郭はそのまま透明なタイム・マシンの窓となる。(……)大事なのはその下のソリッドな部分、個性から物質へと還元された、時を越えて連綿たるゆるぎない存在の部分であるということが、その時、あざやかに見えた。」【池澤夏樹『スティル・ライフ』より表題作, 中公文庫, p.53】

パフォーマンスを考えた時、まず最初に意識しなければと思ったのは、この場合の『私』というのを、『まさにこの私』ではなく、『たとえば私』ということであり、『任意の私』の代表としての『私』として取り扱わねばならないということです。特別に私に起きたことではなく、あらゆる時代の誰にでもあてはまる『存在』を想定するのです。そして『場所』もそうです。『まさにここ』ではなく『例えばここ』『例えばあそこ』。」【 東京竜巻プロジェクトTokyo Dragon Tornado Project 1993~1995

《往復する拳》、というよりデュレーショナルパフォーマンスの反復には、偏在する物質を個別化・個性化する過程(たとえばただの石が私にとってのパパイヤ石となったように)と、逆に「個性から物質へと還元された、時を越えて連綿たるゆるぎない存在の部分であるということ」を喚起する過程とが、それこそ汀のようにない交ぜとなっているのだろう。

 石を運び終え、軍手を外した山岡さんは、部屋の角で全身を伸ばすように両腕を上げると、そこから “空気の球” を取り出して運び始めた。胸高に抱えた両手の幅からしてそれもパパイヤ石ほどの大きさのようで、私たちが行って帰ってくる間に反対側の窓辺へ移動し、広げたクロスを閉じようとしていた北山さんは、眼前に差し出されたそれをとがらせた口で吸ってみせるとちょっと笑った。山岡さんは玄関へ移動しながら、観客へ、そして石田さんへ空気の球を手渡していった(…省略…)

撮影・下田晃平
撮影・はやしはじめ

(……)

こぬか雨が去り、薄日とともにやってきた風から空気の球を背で守っているのか、時に後ろ歩きであぜを進む山岡さんの向こうにふと農家らしき人が見えて、背負った機械のホースから、なおも山の稜線を滲ませるもやのごとき白い煙を吐き出す。風神めいたその所作には、

「一定のプログラムに身を任せて働くのが一種の快感を生むことに人は気付かない。本当は気付いているのだが、それを表現するための言葉がない。まったく同じ動作を繰り返して畑を耕し、時間と共に未耕の部分が減ってゆくこと、(……)同じ動作を繰り返して、自分の身体に何かを教えこむこと。そういう喜びがある。」【池澤夏樹「ヤー・チャイカ」『スティル・ライフ』中公文庫, p.110】

きっと日ごとに、何(十)年もこの地で繰り返されてきたのであろう手際の良さがあった。一方で、

(A)観葉植物をギャラリーから用水路前まで運んで植え、

(B)3つの石をリレーしながらギャラリーまで持ち帰り、

(C)空気の球を用水路前まで運び、

(D)鉢植えに戻した植物をギャラリーまで持ち帰り、

(E)3つの石をリレーしながら用水路前まで運び、

(F)空気の球をギャラリーまで持ち帰り、

(A’)また植物を用水路前まで運び、

…という往還の中で、クライミングサンパラソルは、その “目まぐるしさ” に少しくたびれた様子だ。植えられては掘り返されるその植物も、それを続ける山岡さんも、安住の地を探す寄る辺ない動物のようでもある。(……)

今作と同じく《Naturalization》を冠した作品が、2012年にはスペインで、2019年度にはスウェーデンで行われたのだが、前者では「村はずれの草むらから、石畳の道の交差する場所」へ、後者では「スコーラ[友人アーティストの自宅兼スタジオ]の裏の森から敷地内」へ植物は運ばれた。すなわちここには越境の「かすかな流謫の悲嘆」のイメージがあるが、

「植物もじつは、人間以上に旅をしていたのである。自然化するという意味の言葉が帰化の意味でもある英語の発想に興味があった。馴染めなくても、根を張らなくてはならない、生きるため。」【2012 Naturalization

山岡さんは、風になり代わって石・空気・植物…を運ぶと同時に、運ばれる物たちとも同化しているのではないか。《Wind from Sky(outside)》と題された作品において、ライナー・マリア・リルケがうたう「バラが生きているのと同じ時間を生きること」【長谷川櫂 選「四季 第7520回」『読売新聞』 2025-07-16, 朝刊, p.2。なお、『薔薇 14』の一節のようだ。】を実践するかのごとく、花に寄り添い続けたように。

「自然には、『国境』や『地名』がない代わり、人間社会とは『違ったやり方』がある。そこでは、あなたは『彼等のやり方』に巻き込まれ、あなたは、あなたの『人間』を逸脱するだろう。」【山岡さ希子photo book「WALK TO THE LAKE」より】

「私は、私を取りまいている太陽や空や花と同じものとなり、その中に突然解き放され、それと同じ資格で、そこに存在しているのだった。(……)私が太虚を感じたのはそのときである。(……)まさしくこの生は太虚にはじまり太虚に終わる。しかしその故に太陽や青空や花々の美しさが生命をとり戻すのだ。」【辻邦生『嵯峨野明月記』中公文庫, pp.428-431】

「かつてはたしかに人間だったのに今では人間よりもこの島そのものの方によほど近い存在になっているのではないか。あるいはもとはこの島で死んだ人々の霊であったにしても、この風土との融合が進んで動物も木々も草も地面も含めたこの島の集合的な霊の一部となったのかもしれない。島が彼を見まもっている。」【池澤夏樹『夏の朝の成層圏』中公文庫, pp.87-88】

 People Sing While Plant(2015)において、歌い踊る人々を尻目に勤勉な精霊のごとく植物を植え続けた山岡さんは、今回も仲間のアーティストたちを、私たち観客を、周囲の存在すべてを見守っていたのかもしれなくて、あぜ道の先に空気の球を残し植木鉢とともに帰って来た彼女は、出迎えるように佇む母子へ微笑みかけた。

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4時間弱のこれらのパフォーマンスの後半に予期せず、ちょっとだけ参加型のようなシーンが生まれた。これについては平岡さんの記述がなかったので、ここに書く。「ギャラリーの天井からの一抱えの空気」を運んで田んぼの畦道を歩いている時に、風があまりに強く、その空気の塊が吹っ飛んで、離れたところ、隣の田んぼのその向こうに飛んでいってしまった。それでそれを取り返すために車道を走って行き、つかんで持ち帰ろうとしたのだが、やはり風が強くて(空の雲はどんどん変化していた。晴れたり曇ったり、雨が降ったりという一日だった)、抱えるのが難しいというか、いつの間にか塊もどんどん大きくなっていて、四苦八苦。すると、なんと!ギャラリーの方から見ていた観客の人たちが助太刀に駆けつけてくれたのである。みんなで抱えてくれて、田んぼの向こうから畦道に戻り、さらに、ギャラリーに無事に運びこんだ。なぜかそこで拍手が上がる。(元々はギャラリーの天井の空気だった)

撮影・下田晃平、はやしはじめ、喜納洋平

目に見えない空気の塊というものを、完全に説明抜きで、観客の皆さんがそれぞれに理解してくださり、頼みもしないのに協力してくださるような事態が生まれたのは、実に奇跡であった。不思議な体験をさせてもらった。感謝。

また、メモしておくべきことがある。平岡さんの文中に引用のある、1993~95年の私の作品、東京竜巻プロジェクトでは、私自身も、そして東京の様々な場所も、特定の人や場所ではなく、「たとえばここ」「たとえばこの人」という感覚だったと書いていた。だが、私は、その後の人生を渡ってきて、そしてこうしたパフォーマンスを経ながら、現在の私は、真逆に、他の誰でもない私、他のどこでもないこの場所、必然的に出会ったものたち、という感覚を大事にするようになった。それは、旅の多い生活をよりもここに住んでいることへの興味が湧いてきたのもある。また、まさに自宅(父の購入したマンションの一室)を相続もした。生まれ故郷でもなく、両親の故郷でもない場所に根付く決心。なぜここにいて、こんなことが起きているのか?という興味へと。この富山という場所に、思い入れたっぷりの石田さんの悩みに触れたのも、私のこうしたプロセスへの一つのメッセージがあったと思われる。

まさに、アートの活動は「出会い」の奇跡を意識的に表現するツールなのだと感じる。日本語では、一期一会という言葉があったね。(2026/03/16)