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2025.3.3 寄居にて

これからのこと

現在、60歳代になっていることを思えば、この後、奇跡的にやる気満々が続けば30年くらい、まあまあ良くて20年、体調や気力が早めに失われれば、あと10年も制作は続かないかもしれない。そのように、これから、それほど時間があるわけでないことを思えば、テーマは絞っていくべきだと思う。そこで、方向性について以下の2点を考えている。

1. テーマとしての「旅」 : 人生そのもの、および1991年頃からアーティストとして行ってきたことを振り返ると、生活上の転居(北海道から九州まで各所15回)や、作品発表のために海外を旅してきた(23カ国)だけでなく、作品そのものが「いくつかの場所を移動する」「巡礼」「失踪」そして「移住」「亡命」というコンセプトなど、場所の移動をその構図とした作品が多い。社会に定住する者ではない点に自分自身のリアリティを感じているのだと思う。昨年から行っているプロジェクトのDurational Performanceにしても、私は日常にいながら、パラレルな別世界にズレていようとしていたと思う。これからの10~30年は、小旅行や移動を意識した作品をしてみたい。コンセプトとしても移動民のことを考えたい。

2. 届け先「少数の人々と、木々、他の生き物、そして鉱物、山、川、空、そして愛すべきヘンテコな物たちへ」 : 2004年ごろに、ある地方プロジェクトの屋外でのパフォーマンスの時、私は木々や空や鳥に私のパフォーマンスを見てもらいたいと話をしたところ、人々に大笑いされた。そして、芸術活動とは、社会の中で行い、人々にアピールして見てもらい、人々に受け入れらることを目指すものでしょうと、あまりに正論で(?)諭された記憶がある。私はすっかり恥じいってしまった。私は「社会」というのは、私が住んでいる世界のほんの一部だと考えていたのだ。でも確かに、おっしゃる通りだ。それから私は、ちょっとした方向転換を試みた、もっと社会を見、美術業界というのも意識した。美術館やギャラリーに通い、そこで紹介されているものを見た。それからの20年、特に国内では挫折の日々である。私のしていることは無価値そのものだった。戦ったけど、結構、無駄だった。それまでは、やたらに楽しかったのにね。社会って、謎だよね。別に、彼らが正しいわけではないのは昨今、どんどん明らかになっている。さて、これから、私に10〜20年しかないのであれば、好きにやりたいと思う。空とか鳥とか石とか山とかに見せる。そうすれば私に訪れる死も自然だろう。そんな表現に、付き合ってくれる「人間」がどれほどいるか、わからない。おそらく年々減るだろう。寂しくなるためには心の準備が必要だろう。どうか、精神が持ちますように。